【児童文学】という言葉を聞いて,どんなことを思い描くだろう。あまり馴染のない言い方かもしれない。【文学】という言葉自体が,小難しそうに聞こえるし,堅い感じもする。その言葉に【児童】がつくと,【子ども向け】という印象がくっつく。簡単なのか難しいのかよくわからない。なんだか賢そうな子どもが読むものか?だったら,自分には縁がなさそうだ。
というような感じを受ける。そもそも最近まで【児童文学】という言葉すら知らなかったが。
そこで【児童文学】を調べてみると…宮崎駿監督の言葉がいちばん自分の中にすとんと落ちて,ものすごく魅力的なものに変わった。
僕は児童文学の多くの作品に影響を受けてこの世界に入ったので、基本的に子供たちに「この世は生きるに値するんだ」ということを伝えるのが自分たちの仕事の根幹になければいけないと思ってきた。それはいまも変わらない。
宮崎駿監督「この世は生きるに値する」 引退会見の全文
宮崎駿監督が,2013年に公開された映画『風立ちぬ』の後,引退宣言をした際の会見での言葉である。(案の定,引退しなかったが。)
児童文学とは,子どもたちに「生きていてよかった」と希望を与えるものなんだ!!
ということで,児童文学と呼ばれるものをいくつか読んでみた。今も読み進めている。読んだものを紹介していきたい。
大人だからこそ,読んでほしい。昔は,みんな子どもだった。子どもだったことがある人なら,絶対に読んでよかったと思えるはずだ。
『やかまし村の子どもたち』概要
時代でいうと,戦後すぐに発表された作品。当時のスウェーデンの様子もなんとなくわかるし,子どもを取り巻く環境もイメージできる。この作者の代表作といえば,『長くつ下のピッピ』
『本へのとびらー岩波少年文庫を語る』/宮崎駿著では以下のように紹介されている。
この世界に楽園があるとするならば,やかまし村がそれです。読んだ子供達は,みんなこの本が好きになり,自分たちもやかまし村に生まれたら良かったのにと思います。
こんな風な楽しさは子供の時にしかありません。
それなのに,このような村でくらすチャンスはめったにないのです。それで,「ああーおもしろかった」と読みおえてから,ちょっぴり残念な気持ちがするのです。
『本へのとびらー岩波少年文庫を語る』 宮崎駿 著 飛ぶ教室
以下,印象に残った台詞などを引用しながら,この児童文学の魅力について触れていく。ネタバレを含みます。
描かれる子どもの楽園
読んでみると,この【やかまし村】を,宮崎駿が【子どもの楽園】としている理由がよくわかる。森の中に佇む3軒の家。そこに住む6人の男女。家から家へベランダから移動もできる。たくさんの自然,秘密基地,農園,やさしい近所のおじいさん…。学校へ行って帰るだけでも大冒険。毎日が冒険。
もしかしたら,誰にでもそんな経験があるかもしれない。ルール,規制,規則など,子どもを守るために作られたものは,子どもから【自由】をも奪っていった。
どちらが正しいのか分からない。時代は変わってしまった。そんなことを言っている時点で,ぼくは,いわゆる【おとな】になってしまったのだろう。
子どもは,どんな場所も楽園に変えてしまう力があるのかもしれない。
子どもから見える世界
今となっては,【繰り返される毎日】【過ぎていく日常】となってしまったが,子どもにとってはちがう。毎日,何が起きるかわからないワクワクする日々が目の前にある。
『やかまし村の子どもたち』では,大人からすると,ただの流れる日常が,夢の世界であることを思い出させてくれる。
たとえば,以下のようなこと。
誕生日は自分だけの日!
兄弟はやっかいだ!
学校がとつぜん休みなった!
犬や猫が現れただけで大イベント!
子どもは秘密なんて守れない!
草の上で寝てみたい!
友達との家出!!
ひみつの手紙のやりとり!
吹雪で家まで帰れない!
こんなこと,おとなからすると大したことではない,というか面倒なことばかりだ。でも,子どもからすると,本当に心躍る楽しい出来事,大イベント,大冒険,夢の世界なのだ。
それを登場人物が本当に,本気で真剣に生きているからこそ,心から嫌な思いをすることもあれば,楽しんむこともできることを教えてくれる。
育児,子育てをしている大人にこそ,読んでほしい。思い出してほしい。
子どもはこんなにも楽しみに生きているということを。
大人が決めた道
「だいたいさ,道しかあるいちゃいけないなんて,だれがきめたんかな?」
「きっとどこかの大人がかんがえだしたのよ。」
『やかまし村の子どもたち』 アストリッド リンドグレーン 著
「道を歩く」ことは誰でも知っている。そうでないと,危険だと思わされているからだ。というか,道を歩いたほうが楽だからだ。それも【どこかの大人が決めた道】を。
物語の中では,垣根の上をおもしろくて歩く描写のときに上記の引用の会話が交わされる。
おもしろい道は危険な道でもある。人生にも言えることかもしれない。おもしろさよりも安全で無難な人生を歩むことが本当に幸せだろうか。リスクや危険を想定するのは大事なことだが,あの頃のように純粋におもしろく生きられる心をいつ失ったのかと自分に問いたくなる。
どっちでもいいこと
「べんとうは,せなかにしょっても,はらにいれても,どっちでもいいのさ。」
『やかまし村の子どもたち』 アストリッド リンドグレーン 著
世の中には,ルールや決まり,規則がたくさんある。その場に応じて決められたルールが。でも,時代にそぐわないものもよく見かける。その代表的なものが,学校の校則ではないだろうか。社会のルールにもそういったものがいくつも見受けられる。
この引用は,弁当を登校中に食べてしまった子の台詞である。
おもしろい。たしかに。早く食べたいから食べる。あとでおなかがすくことなんて考えてもいない。学校で先生に怒られることも考えていない。かっこよすぎる。どっちでもいい。こんなこと自分にはできないかもしれない。
職場でもよく思う。なぜこんなルールがあるのかと。上司が決めた理不尽な行いもその一つかもしれない。無理やり,今の自分にあてはめてみたが,心意気は忘れないでいたい。
ルールに従うにしても,破るにしても,しっかりと考えたうえで,自分の責任のもと,判断したいものだ。何を優先にするかというと,目の前の今をしっかりと見つめて。
さすがに大人なので,すべてが心のままというわけにもいかないが。
みんなでたのしく
ひとりぼっちであるいていくのなら,ずいぶんいやな感じでしょうが,6人であるくのだと,おもしろいことばっかりです。
『やかまし村の子どもたち』 アストリッド リンドグレーン 著
子どもって一人の時と,複数でいる時と,まったく別の人間になることがある。自分もそうだったかもしれない。友達といると,友達を笑わせたくて,変なことをした。無茶をした。人がしないようなことをして,みんなを楽しませるキャラだったような気がする。やりすぎてしまったこともあるが。
友達といると,自分を大きく見せようとする。こんなこともできるんだぞって見栄をはることもある。目立ちたい。自分を関係性の中で確立したい。そんな意識が働いてか,なぜだか強くなったような気さえする。
友達とは,子どもにとってそれだけ大きな存在。親である自分も,子どもの友達に対して,大きな目で見てあげたい。
自分の子といろいろなことがあるとは思うが,そういったことすべてをひっくるめて,互いに成長させてくれる存在であると。
友達関係いろいろあると思うけれども。
自分がそうであったように。
子どもの心を忘れたぼくたちへ
いつもたのしいことがあります!
『やかまし村の子どもたち』 アストリッド リンドグレーン 著
子どもは,楽しいことを楽しい!を思わずにやっていることがある。それが本当に楽しんでいるということでもあると思う。
子どもは経験値が少ないから,「楽しい!」と分かり切っていることも少ない。やってみてどうかわからないけど,やってみたい!そういうことのほうが多い気がする。
経験がないゆえに,「やりたくない!」ということも多いだろうけれど,他の人が楽しそうにやっていると,すぐに切り替わって「やってみたい!」となるわけだ。
そう。子どもには,大人にはできない楽しみ方がある。いつもたのしいことがある!そんな毎日を送っている。
ぼくは,子どもに毎日楽しかった!という毎日を提供できているだろうか。いや,そう考えている時点で,子どもをバカにしているのかもしれない。
子どもは勝手に楽しむ。自分で見つける。楽しいことを。それが子どもなんだと教えてくれた。
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