【最高の王道ファンタジー】『はてしない物語』/エンデ作 人間の想像力の素晴らしさと恐ろしさ【空想VS虚無】

育休中に読んだ本
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何かに心をとらえられ,たちまち熱中してしまうのは,謎にみちた不思議なことだが,それは子どももおとなと変わらない。そういう情熱のとりこになってしまった者にはどうしてなのか説明することができないし,そういう経験をしたことのない者には理解することができない。

『はてしない物語』 ミヒャエル エンデ作 

まさに最高の王道ファンタジー。いわゆる❝王道ファンタジー❞とは,現実に悩んだり,苦しんだり,つらい思いをしたりしている少年が異世界へ行って,様々な困難,苦境を乗り越えて成長して帰ってくるという物語。さらに,設定は魔法や超能力などの説明がつかないような超自然的で幻想的な世界観の物語。まさに王道を往くファンタジー作品である。

そのファンタジーの中に,時代の風刺,社会の課題,子どもの悩み,人間がどう生きていくべきかなどの要素がこれでもかと詰め込まれている。

何もない真っ暗な虚無に人間の想像がどう立ち向かうのか。人間の想像することの素晴らしさと恐ろしさを描いた作品。

個人的に印象に残った場面や台詞などを中心に引用しながら感想をかいていきたい。

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『はてしない物語』概要

『はてしない物語』

作者:ミヒャエル エンデ

岩波書店 (1982/6/7) 原作は1979年にドイツより刊行

バスチアンはあかがね色の本を読んでいた――ファンタージエン国は正体不明の〈虚無〉におかされ滅亡寸前。その国を救うには、人間界から子どもを連れてくるほかない。その子はあかがね色の本を読んでいる10歳の少年――ぼくのことだ! 叫んだとたんバスチアンは本の中にすいこまれ、この国の滅亡と再生を体験する。(アマゾン商品紹介)

【児童文学】とか【児童小説】とか【児童書】とか,そういったジャンルの代表格といっていい作品『果てしない物語』。もしかしたら同作者のミヒャエル・エンデの作品と言えば,『モモ』という人もいるだろう。どちらもおすすめ。

本当にどんな頭をしているのか,どんな心をしているのか,どんな生き方をしているのか,どうやったらあんなに想像力に満ちた世界を構築できるのか。

エンデの頭や心は,宇宙だと思う。それこそ真っ暗な虚無の中に,彩りを与えてくれるエンデの空想に,どれだけ多くの人が救われ励まされ豊かにしてもらっただろう。

以下,ネタバレを含みます。

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魅力的な空想世界

「本って,閉じているとき,中で何が起こっているのだろうな?」

『はてしない物語』ミヒャエル・エンデ作

すべてが魅力的。生き物の種族,場所や土地,世界全体に漂う人の想像でしか創造できないような数々の設定や名前。

❝三つの神秘の門❞とか,❝白い幸いの竜フッフール❞とか,❝さすらい山の古老❞とか,❝色のある死グラオーグラマーン❞とか,言葉のセレクトがすごい。

もう何その魅力いっぱいのネーミングセンス!

バスチアンの言葉を借りよう!そういった魅力的なものや人や街たち…

❝本の中で何が起こっているのか?まだ知らない人や世界がそこにはあるはずだ。どうやって本の中に入ったのか?読まなくちゃ!❞

冒頭の部分だが,この流れが素敵すぎる。本を読む少年バスチアンと同じ気持ちで物語に没入できる。ただ,バスチアンはぼくを置いて物語の世界❝ファンタージエン❞に行ってしまうわけだけど。

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権威は使うな,起こるがままに。

そなた自身の意見にもとづいて判断をくだしてはならぬ。

引用:『はてしない物語』 ミヒャエル・エンデ作

大いなる権威を得たものは,権威をつかってはいけないし,その人自身の考えは意味をもたなくなる。武器をもっていてはいけない。起こるがままに。

アトレーユが一度だけ,自分の意見を押し通そうとしたとき,四人の台風坊主にやられてしまい,合アウリンを手放してしまうことになる。

権威を得た者,力をもったものはその権威をつかってはいけない。自分自身だけで判断してはいけない。今の時代にも通じる教訓のような気がする。

事実,後半でバスチアンはアウリン(どんな望みも叶えられる権威)をもっていることで,自分の何もかも一切を忘れ失ってしまう。世界を破滅に導いてしまうのだ。

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新しい名前,変わり続ける世界

新しい名前をもらうことで,ファンタージエンの世界は滅亡の危機を免れた。そう新しいもの。中身は変わっていないのに新しくなると,それだけで魅力的で期待せずにはいられない。

人々は,いつも新しいものを欲している。古いものは要らなくなる。当時の時代背景は分からないが,きっといつだってそうなのだろう。新しいものに酔いしれる。すぐに飽きると心のどこかで分かっていながら,古いものは排除され,跡形もなく消えていく。

そして,この世界を変えるのは指導者ではなく大衆。常に新しいものを求めている者たちが時代をつくる。「あの頃はよかったなぁ」なんて言っている人たちがもれなく老害と言われてしまうこの世の中において思い当たる節はたくさんあるだろう。

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空想の危うさ~欲望・絶望・虚偽~

虚無にとびこんでったこの化け物の連中があっちで何になるか,あててみな,ぼうず。

連中はな,人間の頭の中の妄想になるんだ。ほんとは怖れる必要なんかなんにもないのに,不安がっていろんな思いを持つようにさせたり,自分自身をだめにしちまうものなのに,まさにそれを欲しがる欲望を持たせたり,実のところ絶望する理由なんかないのに絶望だと思い込ませたりするんだ。

『はてしない物語』ミヒャエル・エンデ作

新しいものと敏感に反応でき適応できる若者こそが時代をつくるのだ。否応なしにその流れを止めることはもはやできない。しかもその流れの中心にあるのは,欲望や妄想,絶望や虚偽,嫉妬や憎悪。

人間どもを支配するのに虚偽(いつわり)くらい強いものはないぜ。人間ってのはな,ぼうず,頭に描く考えで生きてるんだからよ。そしてこれはあやつれるんだな。

『はてしない物語』ミヒャエル・エンデ作

空想や想像は素晴らしいことだが,危険をはらんでいる。人間で在るがゆえに,ぼくたちは空想することができるし,想像力をもっているわけだが,それは同時にありもしない虚偽や絶望をもつくりだし,嫉妬や憎悪につながると。

そして,その絶望や虚偽からつくりだした嫉妬や憎悪をあやつることもできる。現実よりも頭で描いた邪な考えで生きていたいのが人間だから。

サイーデが❝中身のないものならなんでも,わたくしの意志で操ることができるのでございますよ❞と言ったように,自分を失い,からっぽになったバスチアンは,サイーデの意のままに(無自覚に)操られた。

この世の中,いわゆる大人の世界もそういうことに溢れていると感じるのは,ぼくだけではないだろう。

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出るのが難しい空想世界

何かを望んで,それがとうていかなえられない望みであるとわかっているうちは,おそらく何年でも,自分がそれを望んでいると固く信じている。ところが突如,その夢の望みが現実にかなえられそうになると,ただもうあんなことを望まなければとよかったと思うものだ。

『はてしない物語』ミヒャエル・エンデ作

自分の望みが叶うことが成長なのではない。得たと同時に失ったものの尊さに気付けることこそが成長なのだ。

言ってしまえば,バスチアンは名前を言うだけで入れてしまった。困難を乗り越えて,というわけでもなく。入るのは簡単なのが空想世界。飛躍させすぎかもしれないが,現実ではない仮想空間には簡単に入れる。動画見たり,アニメみたり,SNSやネットの世界へは簡単に入っていける。

でも,いつだってそう。現実にはなかなか戻れない。いつも空想に浸っていたい。

youtube見ていたい。でも,そうすると,自分を失う。自分が見たことってなに?知りたいことってなに?次々と現れるおすすめ動画を,見せられて抜け出せなくなる。

オンラインゲームだってそうだ。自分がゲームをやりたいのではなく,やらされてしまう。ログインしないとアイテムをゲットできない。ボーナスを獲得できない。他のユーザーに置いて行かれる。自らの意志ではなく,やらされていることに気が付けるか?

SNSもそうだ。ある問題やニュース記事を見る。自分の意見をどうもっていいのか分からないから,SNSを見る。自分がなんとなくそうかもと思った考えや意見を探す。自分の意見をもてなくなっている。自分の意見を探すようになっている。それが今の現実だ。そうやって,自分が誰だか分からなくなる。

自分を失い,迷っているようなからっぽの人にこそつけこまれるのだ。嫉妬や憎悪は。

ネットの世界,バーチャルな世界,仮想空間はなんでも望みが叶う世界だと錯覚してしまう。おそろしいことだ。まるでアウリンをもったバスチアンのようだ。

「怖れるとか怖れないとかではない。」

グラオーグラマーンは声を荒げていった。

「この道をゆくには,この上ない誠実さと細心の注意がなければならないのです。この道ほど決定的に迷ってしまいやすい道はほかにないのですから。」

『はてしない物語』ミヒャエル・エンデ作
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愛するということ

バスチアンは現実世界で母親を失っている。おそらく生前はたくさんの愛を受けただろう。お父さんも同様に。だから愛することを知らなかった。愛をもとめて空想していたのかもしれない。

❝変わる家❞は,入った者が根源的に心の奥底に眠らせてしまっている「足りないもの」を見せてくれる家なのだろう。その足りないものによって変わる家は変わっていく。

そこで❝アイゥオーラおばさん❞という名の母親と出逢い直す。再会するといったほうがいいのか。

どんな時代の,どんな生態系の,どんな物語においても共通していること。そう,やはり,❝愛❞を教えてくれるのはいつだって母親なのだ。

母親から母乳をいただくごとく,バスチアンはアイゥオーラおばさんの頭の果実を食べる。そうして満たされていき,悟る。

おばさまがやさしく細やかに心をくばってくれることにも,みちたりたように感じはじめた。そして,そういうものを求めていた気持が鎮まるのと同じだけ,バスチアンの心には,まったく別の形の憧れが目覚め,大きくなっていった。それは,これまで一度も感じたことがなく,あらゆる点でこれまでの望みとはぜんぜんちがう欲求だった。自分も愛することができるようになりたい,という憧れだった。自分にはそれができなかったのだということに気がついたのだった。

『はてしない物語』ミヒャエル・エンデ作

人は愛したいのだ。誰かを愛したくてたまらないのだ。愛する対象を探し続けている。愛するに値する対象に出会いたくて生きている。

空想のすばらしさと同時に,その危険性を指摘してくれている本作に込められているのは,おそらく【だからこそ現実世界の中を愛をもって生きろ】ということ伝えたいのだろう。

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すべての人に物語がある。

けれどもこれは別の物語,いつかまた,別のときにはなすことにしよう。

『はてしない物語』ミヒャエル・エンデ作

この言葉はおそらく7回くらい出てきたと思う。(正確に数えろよ!)

この言葉が表すのは,アトレーユやバスチアンといった物語の中心人物以外が,大した人生を歩んでいないということを否定している。

アトレーユやバスチアン以外の人たちにも,彼らが主人公になるべき物語がきちんとあるということだ。

それはぼくたちにも向けられる。この『果てしない物語』の主人公にさえなれるともいえるし,今回は主役ではなかったが,自分の終わりなき物語の主人公になれと言ってくれている。

多くの物語は,メインの中心人物以外の登場人物を情けないキャラクターとして描く(描いてさえいないこともある)でも,違うその世界をかたちづくったなくてはならないキャラクターなのだ。

それぞれにかけがえのない人生がある。たいせつな世界がある。自分こそが主人公である物語が必ずある。だから生きろと。

それは,大人であり,親であるぼくたちが,子どもに伝えなければならないことでもある。自分の物語を自分のものとして生きろ

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