育休を取得して300日目に思うこと

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育休を取得して今日で300日目になる。

数字のキリがいいだけで,何か特別なことがあるわけではない今日。

この300日についても,カウントダウンしていたわけでもなく,偶然気が付いたのだ。前回の記事を書いているときに残り65日かと考えていただけのことだ。

この300日という日について,ただとりとめもなく思ったことを書いていく。

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育休300日目ということは

【育休を取得して300日】という言葉をちがう言葉に変えてみよう。おもしろいことに同じ意味の言葉でも表現を変えるだけで違った印象になる。

育休300日目ということは,300連休ということだ。

育休300日目ということは,この300日間仕事をしていないということだ。

育休300日目ということは,300日間家族と過ごしたということだ。

300連休

まさか自分が300連休もできるとは思ってもみなかった,というか誰も思ってもみないだろう。

もちろん,大義も意味もあって休みをとっているので,世間的には合法的な休みではある。

仕事をしている時は,3連休でもうれしかった。普段2連休さえないという労働者もたくさんいることだろう。

その中で300連休。信じられない。今でも信じられない。その点で,心の底からうらやましがる人もいるだろう。

一方で300連休なんて無理だという人もいるだろう。仕事がないと逆にしんどい,何をしたらいいか分からない,ずっと家にいることで夫婦仲が悪くなりそう,堕落した生活になりそう等,理由はさまざまだろうが,どうなんだろう。

明日から300連休です!と言われたら,うれしい?うれしくない?あるいはそのどっちも?

ぼくのこの300連休は,このブログにたくさん書き記している。本当にかけがえのない時間である。

仕事をしていない300日間

現在,社会人になって10年を少し過ぎた。大学を卒業して,すぐに今の職に就いたわけではない。正規雇用ではないものも含めて,3回ほど転職をした。転職などというかっこいいものではないが。

その大学時代はモラトリアムだと言われるが,大学を卒業しても3年ほどモラトリアムを過ごしていたようなものだったので,いわゆる平坦でもまっすぐでもない道を歩んだ。それなりに(人並みに)山や谷はあったが,かといって断崖絶壁で奈落の底に落ちるというまでの経験はしていない。

大学を卒業した頃,社会の厳しさに耐えるだけの精神的な強さを持ち合わせていなかったので,心が疲れてしまった時期があった。人のやさしさにどっぷりと甘えてしまっていたようにも思う。

仕事を辞めて地元へ帰ってきたときに厳密には覚えていないが数か月ほど何もしない時期があった。「休み」というよりは「無職」だった。

その「無職」の時期と今の時期を比べてみると,精神的な安定性はまるでちがう。それは,今は家族がいるからだろう。休み中とはいえ,社会的な居場所も肩書もあるからだろう。

今の「休み」は,あくまでも「育休」であり,言い訳のできる休みなのだ。

そう考えてみると,数か月とはいえ,自分には無職(ニート)の経験もあるのだなと少し誇らしくもある。誇ることではないし,親に申し訳ない気持ちはいまだにあるが。

「仕事」をしていないということは,この期間,社会に何一つ貢献していないことにもなる。

世の中に何一つ貢献していない。貢献できていることがあるとすれば,消費していること,税金を払っていることくらいだろう。生み出してはいない。生産してもいない。

生きているだけで(消費しているだけで)一応,役に立ってはいるのかもしれない。

その世の中や社会に対して無力な分,自分の人生を,自分の子の人生を,家族の将来を,充実させているぼくは,なんとわがままで自分勝手なのだろうとも思う。

「仕事をしていない日」だから「何もしていない日」というわけでもないが,この世界に対しての貢献度は著しく低いだろう。

じゃあ,何をしていた?

このブログにやったことをたくさん書き記している。かけがえのない時間である。

家族と過ごした300日間

当然,育休で最も大事なことは仕事をしていない時間のすべてを「家族と過ごす時間」に充てることである。

ただ,ずっと一緒にいるわけではない。ずっと一緒にいなくてはいけない,とも思っていたが,そうなってくると義務化する。あくまで「育休」なのだ。仕事,業務などではない。

奥さんも育休なので,家計が非常にやばい状態ではある。だからといって,精神的にやばくなっていては本末転倒であるので,家計がやばくても心に持ち込んではいけない。

育休をとる意味としては,男性も家事や育児をすることで母親の負担を減らしたり,男性と同じように女性の社会進出を円滑にする目的もある。

育児者(親)の心が安定してこそ,より良い子育てができるからだ。心に余裕がないと,子どもに対して理不尽な振る舞いをしてしまう。それに加えてお金にも余裕がないと思い描く子育てはできないのだろうけど。

「家族と過ごした300日間」と題したが,ずっと一緒にいるわけではない。どこぞのラブソングのように物理的には離れていても,心は近くに在るみたいな感じの時もある。むしろ,それがより良い距離感,心地よい生活をもたらしてくれる。

奥さんが子どもを見ているときは,ぼくはこうしてカフェで子育てについてのブログをかくわけだ。ぼくが子どもを見ている時は,奥さんは子どもの服をつくるわけだ。

こうすることで,家族が適切な距離感で関わることができている。いかに家族といえ,同じ空間にずっと一緒にいるのはしんどいだろう。

家族と共に過ごす300日間。

それはこのブログにどう過ごしているかたくさん書いている。かけがえのない時間だ。

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育休の300日でどう変わったか

今までも今後も起こりそうにないという意味で「空前絶後」とか「前代未聞」といえる育休。

この300日でぼくという人間は一体どう変わったのだろう。

「あ,自分って変わったな」と感じることがどれくらいあるだろう。

気が付かないうちに,自分は変わってしまっていて,「あの人ってかわっちゃったよねー」なんて噂話の的になってしまうことがある。自分は変わってないつもりでも他人から見ると変わったと感じられることもある。

自分の変化を自覚していない人もたくさんいる。中学時代おとなしかった人が高校で大変貌を遂げたなんて話もよくある。田舎から都会に出た若者も原型が残らないほど変化するのは環境のせいなのだろうか。

「環境が変われば自分も変わるしかない」

人間はいかに環境に適応していくことで生き残ってきた生き物だ。

となると,ぼく自身も大きく変わったはずだ。毎日仕事をしていた環境から,毎日休みの環境になったわけだから。大きく変わっていないとおかしい。

さて,では何が変わったのだろう。

自分の変化はなかなか気が付くことができない。はっきりいって「わからない」何がどう変わったのか。

正直,何も変わっていないとさえ思う。

「おれは何も変わらない!」とかっこよく言う人がいるが,それは,適応能力のない人間と明かしているような気もする。「成長できない人間」といっているようなものかもしれない。

いやいや,本質的には変わらないという意味で,表層では変わったよ。と言うのなら,結局は何も変わっていないの?って。

さて,ぼくはどうなんだろう。昔から,すぐ変わる人が嫌だった。新しいものにすぐに飛びつき,大事なものを捨ててしまう人。だから,好きな歌手はとことん好きになり,好きなマンガを何度も繰り返し読んだ。それも成長がないように感じるけど,すぐにコロコロやっていることも言っていることも変わってしまう人よりはいいだろうと思っていた。

だからこそ,自分が変わってしまうときには,「あ,おれって変わったな」と気づきたかった。変化に敏感でありたかった。その変化に対して,把握しておきたかった。結果があるなら,必ずその原因もあるだろうと。

子育てについて

「子育て観」が変わった。子育てをなんとなくしていたし,何の根拠もなく自分が良いと思った方法をやっていた。正解も間違いもないだろうと。

仕事をしている時は,奥さんほど子どもと関われなかった。関われない分,喜びも苦労も感じられない。苦労や苦悩の多くは奥さんが感じていた。それを偉そうにアドバイスするようなことをしてしまっていたと反省した。

だから,奥さんと子育てについてたくさん話すようになったし,自分なりに育児についての本をたくさん読むようになった。

自分のやっていたことが肯定されるような本にも出会ったし,やってはいけないことをやってしまっていたと自覚させれるような本にも出会った。

もちろん,本にかいてあることがすべてではないし,自分や子どもによって対応策やできることは変わってくるだろうから鵜呑みにはしない。

ただ,精神科医や心理学者,数々の研究や子育てに悩む母親と関わってきた専門家たちの言葉は参考にならないわけはない。

子育てについての意識が変わったといえる。

夫婦関係

大きな変化はないとは思うが,これもやはり変わった。奥さんに対する自分。自分に対する奥さん。二人の関係性が。

育休に入る前も,自分としてはわりと育児や家事をしていると思っていた。

でも実際に育休に入ってみると,いわゆる「見えにくい家事や育児」について見えるようになってきた。

奥さんはこんなこともやってくれていたんだなと実感した。

奥さんに対する思いや,家事や育児に対する思いが変わったといえる。

そもそも,ぼくが育休を取得したのは奥さんが「育休とってよ」と言ってくれたからだった。

男が育休をとるということは,頼りにされているということでもある。そういうふうに見てくれていることがうれしかった。

聞けば,「旦那に育休なんて絶対とってほしくない!」というような人がたくさんいた。男が育休をとれるかどうかは,奥さんにかかっている。奥さんの同意なしにはいいことにはならないから。

その意味でも奥さんの存在は本当にありがたかった。育休中に何をして過ごすか話すだけで楽しかった。

「あれもやりたい!これもやりたい!」本当にできるかわからなかったが,300日経った今,ほとんどのことを実現している。

そういったことを経て,前よりも仲良くなったのではないだろうか。

仕事

仕事に対する思いも変わってきた。300日の間に,少しずつ変わった。

育休に入る前は,仕事がしたくてたまらなかった。育休にも魅力を感じていたが,育休をとるといった決断はまちがっていたのではないかと悩むほどだった。

どうしても仕事をしたかった。その気持ちはしばらく続いた。といっても,時間の流れとともに薄らいでいった。そうなった理由は時間の流れだけではなく,育休の日々が素晴らしいものだったからだ。

この300日の間に仕事に対してはいろいろなことを思った。

職場のことを考え,大丈夫かなと心配してみたり,自分なんていないくても成り立っていることに少しだけ嫉妬してみたり。

不思議なことに復帰したいとは一度も思っていない。復帰したくないとも思っていない。かけがえのない育休のこの時間を楽しみたいからだ。

今,置かれた環境で最高の日々を過ごす。仕事をしていようと,育休であろうと,その状況をより良いものにするために生きる。それはいつまでも変わらない思いだ。

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