【児童文学に学ぶ】生きるとは。『モモ』/エンデ作【時間を生きる大人たちへの警鐘】

育休中に読んだ本
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【時間】ってなんだろう。そんなことを考えたことがある人間がどれくらいいるだろう。

常に人は,時間を気にして,時間の中を,時間と共に生きているというのに。しかも,逃れらないし,逆らえない。戻ることも,先に進むことさえもできない。今共にすることしかできない。

いや,頭の中で,心の中で,短く感じたり,長く感じたりすることはできるかもしれない。寝ている時の時間感覚は7時間でも一瞬に感じられるし。

時間って不思議。大人であればあるほど,社会人であればあるほど,気にして逃れられない時間の中を生きている。

とてもふしぎな,それでいてきわめて日常的なひとつの秘密があります。すべての人間はそれにかかわりあい,それをよく知っていますが,そのことを考えてみる人はほとんどいません。たいていの人はその分けまえをもらうだけもらって,それをいっこうにふしぎと思わないのです。この秘密とはーそれは時間です。

『モモ』 ミヒャエル エンデ 著

【児童文学】を代表する作品『モモ』

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『モモ』の概要

『モモ』

‎ 岩波書店 (2005/6/16)

原著は,ドイツより1973年に刊行

著者:ミヒャエル エンデ 訳者:大島かおり

1929‐1995。南ドイツのガルミッシュに生まれる。父は、画家のエトガー・エンデ。高等学校で演劇を学んだのち、ミュンヘンの劇場で舞台監督をつとめ、映画評論なども執筆する。1960年に『ジム・ボタンの機関車大旅行』を出版、翌年、ドイツ児童図書賞を受賞。1970年にイタリアへ移住し、『モモ』『はてしない物語』などの作品を発表。1985年にドイツにもどり、1995年8月、シュトゥットガルトの病院で逝去 (「BOOK著者紹介情報」より)

比較的新しい児童文学作品であるが,1973年というと,今から50年も前になる。読後感というか,読んでいる最中に思ったことは,「今の時代と同じだな」ということ。

時間との関わり方,時間の中での過ごし方は50年前も今も変わらないんだと思った。

町はずれの円形劇場あとにまよいこんだ不思議な少女モモ。町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、幸福な気もちになるのでした。そこへ、「時間どろぼう」の男たちの魔の手が忍び寄ります…。「時間」とは何かを問う、エンデの名作。小学5・6年以上。(「BOOK」データベースより)

児童文学を読むときにいつも驚くのは,その対象年齢。

確かにおもしろいし,分かりやすいし,絶対に読んでほしいと思うけれど,5・6年生がこんな作品読めるかなと考えてしまうのは,子どもをバカにしすぎなのだろうか。

何を基準にこんなことをいうのかというと,間違いなく5・6年生の自分は読めかっただろうなということ。それでも,当時の自分に読ませたいと思うくらい素晴らしい作品であり,子どもにこそ読んでもらいたい。さらにいうと,子育てをしている大人にこそ読んでもらいたい。

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話を聞く力は,心を聞く力

小さなモモにできたこと,それはほかでもありません,あいての話を聞くことでした。

(中略)

ほんとうに聞くことのできる人は,めったにいないものです。

そしてこのてんで モモは,それこそほかにれいのないすばらしい才能をもっていたのです。

『モモ』 ミヒャエル エンデ著

モモに話を聞いてもらうと,自分の意志がはっきりする。勇気が出てくる。希望がわいてくる。

本来,人の話を聞くとは,そういう効果があるのかもしれない。不満ばかり言い合ったり,愚痴ばかり言い合っても,それだけで終わってしまうと何も生まれない。

人の悩み,不満,愚痴,不安などを聞くことで,相手の気持ちを楽にさせてあげ,本来もっている前向きな気持ちまで引き出してあげる。

人と人とが話をすることはそういった力があるのかもしれない。人間は話すことができる。それと同時に,聞くことができる。

主人公であり題名にもなっているモモに,そういった才能を携えたのは,著者の「人と人とは本来こうして関わり合うものだ」という人間論を感じることができる。

仕事や業務に追われ,事務的で機械的な関わりしか持たなくなった人間に対する対立命題としてのキャラクターともいえる。それこそが人間が人間である所以であると。

「話をする」ということは,言葉を交わすということ。言葉とは,心を声にしたもの。

心と心を通わすのに,言葉がいらないときもあるけれど,その関係性をつくるのは,やはり言葉だ

そして,その言葉(相手の心といってもいい)を,捉えるのは,「聞くということ」

その一連の,関わりこそが人間なのだと。

心ある言葉を発することはない灰色の男たちとは真逆。

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じっくり考えてから話すおじいさん

モモには,対照的な親友が2人いる。この2人の親友が何を象徴しているのか。

ベッポの考えでは,世のなかの不幸というものはすべて,みんながやたらとうそをつくことから生まれている,それもわざとついたうそばかりではない,せっかちすぎたり,正しくものを見きわめずにうっかり口にしたりするうそのせいなのだ,というのです。

『モモ』 ミヒャエル エンデ 著

世の中の不幸は,すべて言葉から生まれるということを言っている。

騙そうとしてつく嘘は当然ながら,現代には,いわゆる「うそ」がはびこっている。大して考えもせず発した言葉。自分が信じたことをさも世の中の真理だといういうかのように騙られる言葉。

自分で考えもせずに「そうだ!」と信じ込む言葉。

自分の利益にしかならないのに,さも相手の利益にもなるような物言いをする営業マン。

そういったものに対するアンチテーゼとしてベッポがいる。

掃除夫というキャラクター設定も活かされている。

返事をしなかったり,遅かったりするベッポは,こたえるまでもないことには答えない。じっくり考えてから答える。間違ったことを言いたくない。言ったことで相手を不幸にしてはいけない。そう思っているからである。

子育てをしている自分として反省するべき点がいくつもある。

時間を気にするがゆえに,子どもの反応や行動を急かしてしまうことがある。

何も答えないことに対して,「早く言って!」などと言ってしまう。

子どもは黙っているとき,何も考えていないわけではない。じっくり考えているのだ。だから言葉にしないのだ。

それを今までどれくらい邪魔してきただろう。親の都合のために,急がせたり,イライラしてしまったり。

子どもは,時計の時間を生きているのではない。【自分の時間】を生きている。

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夢や希望を語る若者

もう1人の親友がジジ。

現実しか見ない大人,空想できなくなってしまった大人に対するアンチテーゼとして存在しているのがこのジジである。

彼は,いつもあることないこと,さまざまな大嘘をつくのだが,このうそは人をだましたり,傷つけたりするうそではない。お金を払わせているところからだましているようにも思えるが,楽しませてお金を払わせている。

大人ができなくなったこと【夢をみる】【希望を抱く】それを体現しているのが,ジジである。

灰色の男たちに,時間を奪われ夢が実現してしまうのは皮肉でしかないが。

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無駄なんてない!

だれでも知っているとおり,その時間にどんなことがあったかによって,わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば,ほんの一瞬と思えることもあるからです。

なぜなら,時間とは,生きるということ,そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。

『モモ』 ミヒャエル エンデ 著

時間の価値観は人それぞれ。

こんな人がよくいる。1時間かー,時給でいうと2000円くらいか。1時間歩くよりも,タクシーに乗って,1000円払ったほうが,相対的に自分の時間の価値は守られることになるなー

時間をお金で考える人。自分もそんなことがたまにある。これをどのようにとらえるかはその人次第なのだが,あまりにも時間とお金を同じものとして考えすぎると,人間らしいとはいえなくなるのではないだろうか。

灰色の男たちに時間を奪われているとしか思えない人が多々いる。

自分もその一人だと思うのだが。

本当にこれだ!という答えに辿り着くためには,ものすごく遠回りをする必要があることもある。

大きな決断をするに至るまで,悩む時間が必要なように。

というか,「これだけ悩んだんだ」という時間のおかげで,重大な思い切った決断をくだせるときもある。

無駄なことはないと思う。

何もしていない時間こそ,次に行動するための大切な猶予だったりする。

とはいっても,無駄な時間だったなと思うことはたまにある。

それを【無駄な時間】のまま終わらせるのか,その後,【あの時間があったからこそ!】という人生を送るのかは,自分次第なのだが。

そういうふうにトータルで,ロングレンジで,俯瞰的に人生をみていくことも必要なのだろう。

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自分の時間の使い方は自分で決める

人間はじぶんの時間をどうするかは,じぶんできめなくてはならないからだよ。だから時間をぬすまれないように守ることだって,じぶんでやらなくてはいけない。

『モモ』 ミヒャエル エンデ 著

ここで考えなくてはいけないことは,自分にとっての【灰色の男たち】は誰だろう。ということだ。

自分の時間を奪うもの。資本主義社会で消費と浪費にお金と時間をかけさせるもの。時間を自分のものとして使っているのであればいいと思う。

使わされている時間はどんな時間だろうか。それは,人であるかもしれないし,「何か」であるかもしれない。

やる必要のない仕事をやらせようとしてくる上司かもしれないし,成長する気のない部下かもしれないし,スマホゲームかもしれないし,絶えず流れてくる動画かもしれない。

自ら使っている時間であるならいいのかな。ぼくにもよくわからないが,自分の時間を自分のものとして使いたい。

もう一つ,自分は誰かにとっての【灰色の男】になっていないだろうか。【時間どろぼう】になっていないだろうか。

ぼくがすぐ思い当たるのは,自分の子にとっての【灰色の男】になっているような気がする。

お風呂に入れたり,早く寝かしつけたり,自分の軸で娘や息子の時間をコントロールしようとしている。

常に時計を意識して,家事や育児をこなしている自分はこれでいいのだろうか。

生活リズムを安定させ,遊ぶ時間,寝る時間,食べる量などを確保するために仕方がないこととはいえ,時間に拘束されすぎているような気がする。

その点,奥さんはすごい。常に【子どものやりたい!】を優先させている。

お風呂で身体を洗うのも,ぼくは自分がやったほうが早いという理由で,子どもの身体を全部洗ってしまっている。奥さんは,いくら時間がかかっても,自分でやるように促す。

もちろん,時間を意識して生きていくことも大切なのは忘れてはいけないけれど。

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【時間】とは生きるということ

人間が時間を節約すればするほど,生活はやせほそっていくのです。

『モモ』 ミヒャエル エンデ 著

これは,訳者のあとがきにも書かれていたことだが,人は時間を奪われることで,【生きること】を奪われていく。

時間やお金,数字ばかりが気になる世の中ではあるが,それに関心をもつのは,やはり大人だけだろう。

子どもはそんなことは気にしていない。身の回りのものと子どもならではの【空想する力】があれば,どんなことも遊びにかえてしまう。

そして,遊びの中にこそ学びがある。子どもは子どもなりに,厳しい世界を生きている。それぞれが自分のやりたいことを主張し,時にぶつかったり,ゆずったりしながら子ども社会を生き抜いている。

その社会には,時間もお金も関与しない。人間として生きている。

そのことを親として忘れないでいたい。

【時間どろぼう】にならないように。

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