『君たちはどう生きるか』に学ぶ親としての在り方・子どもへの向き合い方【吉野源三郎 作】

育休中に読んだ本
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最後に,みなさんにおたずねしたいと思います。

君たちは,どう生きるか。

『君たちはどう生きるか』吉野源三郎著 十春の朝

この,なんといったらよいのか表現できないような心に直接語りかけられる言葉でしめくくられる『君たちはどう生きるか』という作品。

2023年7月公開となった宮崎駿監督の長編映画『君たちはどう生きるか』で,本書を知った方が多いのではないかと思う。映画の【よくわからなさ】に本書を手に取った方も多いのではないかと思う。

映画『君たちはどう生きるか』について,少しでも自分なりの解釈を,感想をもちたいのであれば,宮崎駿著『本へのとびらー岩波少年文庫を語る』を一読することをおすすめする。


育休中であるぼくが,読んだ本から親として,大人として学んだこと,育児や子育てに通ずることを引用しながら,身勝手に書いていく。

今回は,映画ではなく原作にあたる吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』から学びたいと思う。

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『君たちはどう生きるか』の概要

『君たちはどう生きるか』

岩波書店 (1982/11/16)

著者:吉野源三郎

編集者・児童文学者・評論家・翻訳家・反戦運動家・ジャーナリスト。昭和を代表する進歩的知識人。『君たちはどう生きるか』の著者として、また雑誌『世界』初代編集長としても知られている。岩波少年文庫の創設にも尽力した。Wikipedia

吉野源三郎という人は,編集者・児童文学者・評論家・翻訳家・反戦運動家・ジャーナリストなど,さまざまな肩書を持っている。平和運動にも尽力したそうだ。ぼくが注目したのは,【児童文学者】という肩書があることだ。宮崎駿監督にしろ,絵本作家の中川李枝子さんにしろ,児童文学から受けた影響は計り知れないと語っており,自身の創作の根幹にもなっているそうだ。

宮崎駿監督は,この『君たちはどう生きるか』を自身の最新作のタイトルにも採用しているほどで,いかに強く大きな影響を受けたか感じ取ることができる。

また,中川李枝子さんも吉野源三郎さんが翻訳した児童文学『あらしの前』と『あらしのあと』に感じたこともない影響を受けたと語っている。

この二冊に分かれた物語を読み終わって,私はもう口がきけないほど感動してしまいました。

『本・子ども・絵本』中川李枝子著 岩波少年文庫と私

調べてみると,吉野源三郎さんは,この岩波少年文庫の創設にも大きく関わっており,尽力されたとある。後の世の名だたる児童文学や絵本,アニメーションなど子どもに対する創作をしている方たちに大きな影響を与えていることを踏まえると,日本社会の礎をつくったといっても言い過ぎではないのかもしれない。

そんな吉野源三郎さんの代表作『君たちはどう生きるか』は以下のような内容とされている。

著者がコペル君の精神的成長に託して語り伝えようとしたものは何か。それは、人生いかに生くべきかと問うとき、常にその問いが社会科学的認識とは何かという問題と切り離すことなく問われねばならぬ、というメッセージであった。著者の没後追悼の意をこめて書かれた「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」(丸山真男)を付載。(「BOOK」データベースより)

では,この『君たちはどう生きるか』をぼくが読んだ感想,素晴らしい言葉,育児や子育てにつながることなど,自分なりに引用しながら書いていきたい。

このブログは,あくまでも読書感想で,誤った解釈をしている可能性があります。本を読んで今の自分が感じたこと,考えたことを書くに過ぎないので,本書の解説文でもなければ,要約でもありませんのご注意を。


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自分中心から抜け出る

人間がとかく自分を中心として,ものごとを考えたり,判断するという性質は,大人の間にもまだまだ根深く残っている。

(中略)

たいがいの人が,手前勝手な考え方におちいって,ものの真相がわからなくなり,自分に都合のよいことだけを見てゆこうとするものなんだ。

(中略)

自分ばかりを中心にして,物事を判断してゆくと,世の中の本当のことも,ついに知ることができないでしまう。

『君たちはどう生きるか』吉野源三郎 著 一 へんな経験

自分中心ではないコペルニクスのような考え方ができるようになったという点において,叔父さんは【コペル君】と名付けられる。

自分はコペル君だろうかと問うと,そうではない。子どもはみんな,【自分中心】であり,当然それで良いのだが,大人になっても,親になっても,【自分中心】から抜け出せていないと実感することが多々ある。

朝の準備にしろ,お風呂に入ることにしろ,親である自分の都合で,子どもを準備させようとしたり,お風呂に入れようとさせたりする。

【時間】からは逃れられないので仕方がないとはいえ,子どもにしっかりと遊ぶ時間を確保できているだろうか。しっかり遊ぶことをしてきた子どもは,実体験の中で生きた学びを経験することは,絵本作家の中川李枝子さんも,おもちゃデザイナーの相沢康夫さんも言っていることだ。

子どもは自分中心で当たり前,むしろ自分中心でなければならない。大人の都合で動かそうとしてはいけない。必ずしも【言うことを聞く子が良い子であるとは限らない。】時には,言うことを聞いてもらうことも必要。親が正しいことがある。でも,それは,本当に,子どものためを思った言動なのか,今一度,反芻する必要がある。

親も子も【自分中心同士】では軋轢が生まれ,争いになり,「もうお菓子食べさせないからね!」とか「どこにも連れて行かないから!」などといった大人にしか使えない卑怯な手をつかって,子どもを黙らせる。

育休パパ
育休パパ

…はい。心当たりあります…。

大人の在り方として,自分中心の考えから抜け出ること。

子どもとの向き合い方として,子どもは【自分中心であることが当たり前】と認める。

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自分で見つけるしかない

人間が集まってこの世の中を作り,その中で一人一人が,それぞれの自分の一生をしょって生きてゆくということに,どれだけの意味があるのか,どれだけの値打ちがあるのか,ということになると,僕はもう君に教えることが出来ない。

それは,君がだんだん大人になってゆくに従って,いや,大人になってからもまだまだ勉強して,自分で見つけてゆかなくてはならないことだ

『君たちはどう生きるか』吉野源三郎 著 二 勇ましき友

 引用するのが本当に難しい。なぜかというと,全文読んでもらいたいからだ。引用だけでは,しっかりと伝わらない。それを言い出すと,すべての本に言えることではあるが,この引用した言葉が出てきた経緯や流れをすべて,読んでもらいたい。

 コペル君のクラス内で起きたいじめの中で,コペル君が感じたこと,とった立場,友人の勇気ある行動,いじめられた本人の振る舞いについて,叔父さんが「真実の経験について」という題名でノートに書く。

いじめの経緯の中での先生の振る舞いも本当に素晴らしいし,同じ男として,大人として見事としか言いようがない。かっこよかった。つかみ合いの喧嘩の中で,手が出てしまったことに対して,

❝私は,あながち君を責めはせん。無理もないと思われるだけの理由があれば,ただ今後をつつしんでもらうばかりだ。❞

こんな先生に叱ってもらいたかったなと思った。

さて,本題に戻ろう。

この引用文がすべてであるし,ぼくが重ねて書いてしまうとものすごく安っぽくなってしまう。これ以上,響く言葉はこの「おじさんノート」以上にないからだ。

親として,大人として,子どもに対して,「教える」という感覚は,どこまで及ぶのだろうか,と自分自身に問い続けなければならない。

もちろん,自分で学んでいくに越したことはないが,だからといって,何もしないわけにもいかない。放置するわけにもいかない。親は子に対して,過剰に干渉しすぎてしまうことは,育休中の今のぼくが嫌というほど経験している。

ともなると,子ども自身が自ら学んでいけるように,場や環境,必要なモノを整えてあげることくらいしかできないのか。与えすぎるのは良くはないのは承知の上で。

ぼくが大事にしたいと思ったことは,ーこれも「おじさんノート」からの引用ではあるがー

❝常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ❞

いいことをいいことだとし,悪いことを悪いことだとし,一つ一つ判断をしてゆくときにも,また,君いいと判断したことをやってゆくときにも,いつでも,君の胸からわき出て来るいきいきとした感情に貫かれていなくてはいけない。

『君たちはどう生きるか』吉野源三郎 著 二 勇ましき友 おじさんノート

自分がやっていることが本当に子どものためになるのか。

自分がやったことは,子どものためになったのか。

これから自分が子どものためにやることは意味や必要はあるのか。

真剣に,たくさん悩んだうえで,実践するのなら,自分のことも,子どものことも信じ切って,信じて疑わずに,やっていきたい。

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人間らしい関係を

人間が人間同志,お互いに,好意をつくし,それを喜びとしていることほど美しいことは,ほかにありはしない。

『君たちはどう生きるか』吉野源三郎 著 三 ニュートンの林檎と粉ミルク

著者の吉野源三郎さんは,【人間らしい関係】を叔父さんを通して上記の引用の言葉として語っている。

夫婦関係も親子関係もこうあるべきなんだと思った。家事にしても,基本的には奥さんが食事を作ってくれることが多いが,どうしても無理そうなときは,ぼくが作る。そうすると,喜んでくれる。

ぼく自身もそう。洗い物や洗濯は基本的にぼくがやっているが,子どもを送り帰ってきて,よし,今から洗い物と洗濯やろうと思ってみてみると,すでにやってくれていることがある。本当にありがたいし,嬉しい。こういうことにあまりにも慣れてしまうと,それが当たり前になってしまい,「ありがとう」を言い忘れてしまうことがある。良好な人間関係を保つための最強の言葉は「ありがとう」

それは,親子関係でも必要だと思う。子どもにお願いをするとき,してもらったときに必ず「ありがとう」を言う。それだけで,自分が本当に助かったよという気持ちが伝わるし,また手伝おうという気にもなってくれる。

子から見た親2人の夫婦関係で「ありがとう」を伝え合うことで,親と子の間でも「ありがとう」で関係を良いものにしたい。

もしかしたら,それが,子どもとその友達との関係をつなぐたいせつな言葉にもなると思うから。

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人間としての自分の価値を

僕たちも,人間であるからには,(中略)

いつでも,自分の人間としての値打ちにしっかりと目をつけて生きてゆかなければならない。

『君たちはどう生きるか』吉野源三郎 著 四 貧しき友

人の価値を,お金持ちだからとか,貧乏だからとかで決めている人がたくさんいる。

良い家に住んでいるとか,良い車に乗っているからとか。

それは,違った見方をすると,良い家を建てられるだけの仕事をして,それに見合った報酬を得ていて,社会や世の中に貢献している,ということにもなるのかもしれない。

だから,お金持ちのほうがすごい,貧乏の人はダメなんて考え方があるのだと思う。

でも,この考えに全面的に肯定することはできるだろうか。たしかに,そういう見方もできるし,否定はしないということもできる。

こういった問いに対しても,自分で考えることが大切なのだろう。そりゃ,良い暮らしをするために,お金はあるに越したことはない。たくさんあればあるほど,良い暮らしはできる。ここでいう良い暮らしとは,豊かな暮らしとはイコールではないし,安易にモノに困らないといった意味で捉えてもらってもいいかもしれない。

たいせつなのは,そのたくさんあるお金をどう使うか。ということだろう。何にどう使うのか。お金がない人について言えば,それも同じことが言える。ない中で,何に使うのだろう。

お金についても,時間についても同じことがいえる。お金も時間も,自分がもっている有限のもの。たいせつなもの。時間をどう使っているのか。お金をどう使っているのか。

それが,人間としての価値にもつながるのではないだろうか。

ともすると,お金を子どもにどう使っているのか。相沢康夫さんの言葉をお借りすると,くだらないおもちゃや絵本に使うのか。親が吟味に吟味を重ね,わが子に必要なおもちゃや絵本を責任をもって選んでいるのか。おもちゃや絵本は買うにも選ぶにも遊ぶにも時間もお金もかかる。

【人間であるからには】考えたい。どう生きるのか。

ぼくはそう解釈した。

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すべてを成長に

その事だけを考えれば,そりゃあ取り返しがつかないけれど,その後悔のおかげで,人間として肝心なことを,心にしみとおるようにして知れば,その経験は無駄じゃあないんです。

それから後の生活が,そのおかげで,前よりずっとしっかりした,深みのあるものになるんです。

『君たちはどう生きるか』吉野源三郎 著 七 石段の思い出

 この引用は,コペル君の母親のものである。自分の経験や友人たちとの関わり,叔父さんの言葉を通じて成長していくコペル君だが,唯一この場面で,母親の昔の後悔した経験を聞き,今までとはまるで別の涙を流した。

 もう忘れていまいたい過去,思い出したくもない経験,やってしまった,取り返しのつかないことをした,悔やんでも悔やみきれない。そんな経験が誰にでもあると思う。特に30年くらい生きていれば,その人なりの,どうしようもなくつらい過去が。

 あまり軽々しくいうべきことではないとは思うが,今の自分が成り立っているのはそういった過去を乗り越えたからともいえるし,乗り越えてないにしても,少なくともその過去を経験したからだと言える。

子どもは,じゃんけんで負けたこと,滑り台を横取りされたこと,ブランコを代わってもらえないこと,すべてがつらいのだ。嫌で嫌でたまらないのだ。すべての出来事に対して,感情を全力でぶつけることができるのだ。

【どうでもいいことをどうでもいいと思えてしまう】ようになったのは,きっと大人になったからだろう。ちょっとのことで,全力で怒ったり,悲しんだりできる子ども。その経験を経て成長していく。

話が少しそれてしまったが,これはきっと【やり直せる】ということだ。児童文学の根幹にあるものだ。どんなに失敗してしまっても,どんなに後悔が残る経験をしても,その後悔のおかげで人として成長するということは往々にしてあることだ。

むしろ,その後悔のおかげで,成長した自分になれるのだ。

嫌なこと,つらいこと,いろんな経験をして今が,自分が,かたちづくられていく親として,子どものそうした経験や後悔を見守っていきたい。

後悔できるということは,自分が間違っていたと,自分が失敗したと認めるようなもの。それができずに,言い逃れをしようとしたり,言い訳を考えたりすることはぼく自身も大いにある。

だから,後悔できる人間で在りたい。自分の過ちを自分がしたことと認め,もう二度と繰り返さない。それが大きな成長になる。

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自分で決める

僕たちは,自分で自分を決定する力をもっている。

だから,誤りを犯すこともある。

僕たちは,自分で自分を決定する力をもっている。

だから,誤りから立ち直ることも出来るのだ。

『君たちはどう生きるか』吉野源三郎 著 七 石段の思い出

 生きていると,自分で決めたような気だけして,実は,周りに決めさせられたようなことがたくさんある。「周り」というのは,世間とか,親とか,上司とか,仲間内の空気とか,そういった圧力,強制力があるもの。

心当たりがないだろうか。

ぼくにはある。むしろ,決めさせた側の心当たりもたくさんある。「自分で決めていいよ」なんて言いつつ,自分が思った選択をするよう仕向けるのだ。最低だ。

子どもがお菓子を一つだけ買うという場面でもそんなことがあった。親として,糖分や塩分の高そうなものより,自然派のものがいいと内心思っていたら,子どもは,見るからに体に悪そうなお菓子を欲している。親であるぼくは,素直に買ってあげてもよかったのだが,選択を与えた。こっちとこっちだとどっちがいい?と。体に悪そうな方を選ぼうとすると,少しぼくは顔をしかめる。体に良さそうなものを手にとるとあからさまにニコッとする。

子ども自身が選んだように仕向けたのだ。これに関しては,子どもの健康のために親としての責任がうんぬんかんぬんといくらでも大義名分を掲げられるからいいとして,ほかにもたくさん,こういったやり方で人生を変えてしまうこともあるのではないだろうか。

習い事もそうかもしれない。本当は心の中ではやめたがっているのに,友達がいるから,とか,続けないともったいないとか,そういった空気に押し負けて,イヤイヤ続けてしまう。とはいえ,イヤイヤやっていたことが人生の財産にもなり得るので,一概に良し悪しは言えない。

ただ,自分で決めたと錯覚させることは自分も戒めないといけないと思った。

子どものうちは,親が責任をとる。だから,子どもの決定に対しても,責任があるということは常に考えておかなくてはいけない。

それでも,親が全面的に決めるよりは,錯覚だとしても,子どもに決めさせることも必要なのかもしれない。

そして,大人として,親として,の前に,ひとりの人間として,自分で決める。自分の人生を自分のものとして生きることを忘れないでいたい。

ぼくたちは,どう生きるのか。

ぼくは,育休中に,誇れる暮らしができている。それは,仕事に対する責任でもあるし,家族のおかげでもある。

育休が明けて,職場に復帰したときに,成長したと思ってもらいたい。

奥さんや子どもに,また育休とってほしいと思ってもらいたい。

そうなれば,きっと,育休の生き方が自分にとってもっともっと誇れるものになるのだろう。

ぼくは,今,たくさん本を読み,こうして記録している。こう生きている。

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