【自分らしくあれ】『バターはどこへ溶けた?』に学ぶ30代の生き方【心から楽しめ】

育休中に読んだ本
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スペンサー・ジョンソン作『チーズはどこへ消えた?』の真逆を徹底的にいくこの作品。なんなら続編だと思ってしまった方もいたのではないだろうか。作者も全く別の人なので,続編でも関連本でもスピンオフでもなんでもない。

ただ,ぼくが本書『バターはどこへ溶けた?』を手に取ったのは,真逆だからこそ。素晴らしい考えや思想に触れた時,自分がその考えに染まってしまうことがある。すばらしい考えなのだから,染まってしまえばいいものを。とも思うが,1つの方向の意見だけを鵜呑みにしてしまうと自分の考えをもてなくなってしまう。

だからこそ,あえて真逆のこの本も読んでみた。

世間的な30代。仕事にも慣れ,家庭をもち,子どもも生まれた。自分ひとりではなく,家族のことを考えて生きなくてはいけない。一方で仕事の面でも後輩が増え,上司からも任されるようにもなる。やることも考えることも多い30代。

そんな30代だからこそ,『チーズ』も『バター』も一読することをおすすめしたい。


ちなみに『チーズ』についてかいた記事は以下。

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『バターはどこへ溶けた?』概要

『バターはどこへ溶けた?』

道出版 (2001/4/1)

登場するのは、賢いキツネとのんびり屋のネコ、それと「バター」。バターとは、追い求めだしたらキリがない、財産、名誉、出世、権力…の象徴。シンプルでなにげない物語には、自分らしく生きるためのヒントが込められている。内容(「MARC」データベースより)

アマゾンのレビューを見ると,「『チーズはどこへ消えた?』より良い!」と書かれているものもあれば,「『チーズ本』を理解できていない!」と批判されているものもある。パロディのような本なので,比較されるのは当然だろう。

色んな意見があるが,ぼくなりに書いてみたい。ぼくは現在,育休中ということもあり,内容がどうしても家庭,育児を視点になってしまうのはご了承いただきたい。

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立ち止まることで動くもの

立ち止まっているように見えても,内なる苦しみと向き合い,逃げることなく立ち向かっていることだってある。

『バターはどこへ溶けた?』 ディーン・リップルウッド 作

大学生の時にお世話になっていた先輩が言っていた言葉が今もずっと心の中にある。たまに思い出しては,勇気づけられる。

「止まることは,心の動き」

何もできないくらい落ち込むことがある。何もないのに,動き出せないことがある。

行動できない。外に出られない。アクションを起こせない。そんな経験はないだろうか。

そんな時こそ,心は動いているのだ。というか,心くらいは動かさないといけない。そんな意味にも捉えられる。

行動しているとき,アクションを起こしたとき,到達したい目標に向かって走り続けているときは,心は動きにくい。その一点のみに注目し,他に目をやる暇も隙もなくなってしまうから。

だから,何もできないときこそ,心を存分に動かす。

もう一つ,以前,ものすごくお世話になった人が言っていた言葉を思い出す。その言葉に当時のぼくは助けられたし,勇気づけられた。

「堂々と立ち止まれ。」

ワーカホリックという言葉があるように,働いていないことが悪。何よりも働くことが最優先。健康,家族,趣味よりも何よりも,仕事が優先であることを意味するこの言葉。

でも,ちがうんだ。ずっと止まり続けることもよくないと思うが,立ち止まることも留まることも必要なときがある。

そして,その時間を決して無駄ではなかったと思えるには,その後の自分の行動も大切になってくる。

次に何かをする時,ふと自分や自分を支えてくれる人のことを思う時,立ち止まらないとしっかり見つめられない。

走らされるのに疲れたら,休めばいいのである。

(中略)

なにもしないでいるといい。きっと何かが見えてくるはずだ。

そのなにかを大切にすればいい。

『バターはどこへ溶けた?』 ディーン・リップルウッド 作
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勝ち取るのではなく,出会う

どんな幸福も自分でつかみとったのではなくて,だれかから与えられたと思えばいいのに。

偶然に出会っただけだと思えばいいのに。

そうすれば,なくて当たり前と思えるようになるのに。

『バターはどこへ溶けた?』 ディーン・リップルウッド 作

自分からつかみ取りにいく。勝ち取りにいく。そういう意識ももちろん大切だと思う。大切である時もある。

ただ,自ら勝ち得たという意識が強ければ強いほど,保有感というか所有物として扱ってしまうのではないか。慢心につながるような気がする。

もちろん,本人の努力で得たものなのだろうが,本人一人の力ではないはずだからだ。周りの人の支えやめぐり合わせ,自分のそれまでの行い,いろいろなものがつながっているはずだ。

そうした視点をもたないと,失ったときにしがみつきすぎてしまうのではないだろうか。

きっとそのことを言いたいのだと思った。

自分ひとりで幸福にはなれない。今ある幸せは,自分のがんばりもあるだろうが,それ以上に周りの人たち,環境によってもたらわれたのだ。

いつかはなくなるかもしれない。だからこそ,「尊い」「ありがたい」などの価値観が自分の中に芽生えてくるのだろう。

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「なんとなく」という感覚

なんのわけもなく,なんとなく好きというのがきっと,いちばん好きということなのだろう

『バターはどこへ溶けた?』 ディーン・リップルウッド 作

理由なんてない。言葉にできない。そんなことたくさんある。特に,好きなものってなぜ好きなのか,自分自身で考えてみることはすごく大切なことだと思う。

好きなものに条件をつけてしまうと,その条件がなくなると好きなものではなくなる。

「なんとなく」という感覚は,大事にしたい。

それはポジティブなときだけではなく,自分の心からの声として,「なんか嫌だな」とか「なんとなく納得できない」とか,その感覚こそが自分にとってほ本質とか本性とか本音みたいなもののような気がするから。

説明を求められることも多いけれど,「なんとなく」を大事にしたい。

もう少し先に進むのなら,その「なんとなく」を自分と向き合って探してみることだ。きっとこうかな?ああかな?って。

言葉にしてしまったとたん滑稽になることもあるけれど。

育児に結びつけるとしたら,子どもこそ,この「なんとなく」が強い。大人が「なんで好きなの?」「何がいやなの?」と聞くことが多いが,言葉を知らないだけかもしれないが,きっと「なんとなく」好きだったり,嫌だったりするのだろう。

説明できないことほど,本音なのかも,という視点で関わるだけで心穏やかになれるかもしれない。

大人目線で,理由を探ることも大事だが。

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追い求めることで失ったもの

「向上」や「前進」のために,

どれだけ大切なものをなくしたことか!

『バターはどこへ溶けた?』 ディーン・リップルウッド 作

【立ち止まっていると何も得られない。】【変化に対応できないとつかみ取るチャンスを失う。】ことは『チーズ』で語られていたが,やはりこの本は真逆。

そのために失ったものもあるということだ。【チーズ】は夢,叶えたい願望,求めるものとされているが,言い方を変えると欲望の塊でもある。その欲望を満たすために,どんなことを失うのか,何が犠牲になったのか,という視点である。

たしかに,【何もしないと何も得られない。】これは単純で納得のいく考えだ。しかし,何かを得るために,何かを失うこともある。そこに意識を向けられているかどうかだ。

意識を向けすぎてしまうことで,目標に到達できないこともあるだろうが。

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変わればいいというわけでもない

『チーズ』の❝変化を楽しもう!❞という言葉は大好きな言葉だ。

ただ,簡単に人は変われないし,変わらない。変わることがいいとも言い切れない。

悪い方向に変わってしまうくらいなら,そのままでいたいとも思う。

ぼくにとっては『チーズ』も『バター』もどちらの考えも大事だと思った。

どちらかというと?

時には小人であって,ネズミであって,猫であってもいいではないか。

それぞれの良さがある。タイミングもある。大事なのは,ネズミであれ!ということでもなく,猫であれ!ということでもない。

どんな自分にもなれる。環境によって適切な自分を発現させる。

それができればいいと思う。

特に子どもと対峙するときって,いろんな自分にならなくてはいけない。

厳しくするとき,優しくするとき,一緒に遊ぶとき,学び合うとき,教えるとき。

根幹にある【自分】をもちながらも,小人であったり,ネズミであったり,猫であったりすることが大事だと思った。

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