子育てをするようになってから,【児童文学】というものの存在を知り,たくさん読むようになった。これまでにいくつか紹介したが,今回は,『チポリーノの冒険』というお話。
お話はもちろんおもしろいのですが,さし絵がとくに上手で愉快で,とても楽しめます。トマト騎士とかちびレモン兵とか,ぼくは大好きになって,絵の描き方でずいぶん影響を受けました。
『本へのとびらー岩波少年文庫を語る』 宮崎駿 著
アニメーション映画の巨匠,宮崎駿監督は,上記のように本書を紹介している。たしかにさし絵は愉快で,創造力を掻き立てられる。野菜や果物の特徴を捉えて,人のような生き物になっているなんて,子ども心からすると,楽しくてワクワクしてたまらない。
『チポリーノの冒険』の概要
1951年のイタリアというと,日本やドイツと共に第二次大戦の敗戦国となった国である。そういった背景は,当時の日本と似たものがあったのかもしれない。
このローダリは,ナチス・ドイツの占領軍とイタリア社会共和国のファシスト協力者に対して戦ったイタリアのレジスタンス運動に参加していたそうだ。
そういった経験が,作品にも影響しているように思う。20世紀のイタリアにおいて最も重要な児童文学作家ともいわれるローダリ。
さまざまな経験を経て,強い信念をもち,野菜たちに託したのだろう。
愉快,痛快,爽快といった言葉がぴったりのこの物語。子育て中であり育休中であるぼくが物語の中で大事にしたいと思った場面や台詞を引用しながら紹介したい。
【悪者】を学べ!
本など必要ないさ。おまえが学ばなければならないのは,ただひとつ。❝悪者❞だ。悪い人に出会ったら立ちどまり,じっくりと観察するんだぞ。
『チポリーノの冒険』 ジャンニ ローダリ 著
不当に捕まったチポリーノの父が,息子であるチポリーノに語った言葉。世の中を旅して学べと。本を買うお金なんてないと言った言葉に対して,父チポローネは悪者を学べという。
現代に生きる悪者ってどういった人たちだろう。「犯罪者」?それはたしかに,分かりやすく悪者だろう。
でも,もっと身近に悪者はいる。決まりを破る人?ルールを破る人?人を傷つける人?
そう考えると,きっと自分も誰かにとっての悪者だったことがあると思う。
理不尽に怒る上司,人によって態度を変える管理職。法律やルールやマナーを破っていなくても,悪者になりえる人はいる。
レモン大公だってそう。彼がすべてのルールを決めてしまうわけだから,その理不尽なルールに従っている人のほうが悪者になり得てしまうのだ。
自分たちの現実のレベルでもそうなのだろう。子どもにとっての悪者はどんな人?遊ばせてくれない人?大人の都合で子どもたちをコントロールしようとする人?子どもの話を聞かず決めつけてしまう大人?
自分にとっての悪者,子どもたちにとっての悪者,現代における悪者,その環境によって悪者のかたちは違う。だからこそ,【じっくり観察】しなくてはいけないのかもしれない。
自分はそうならないように。
何のために生きているのか。
生きていれば一度や二度くらいは,この「自分は何のために生まれて生きているのだろう?」という問いに直面することがあると思う。
小学生の時にぼんやり考えてみるのか,中二くらいで誰かの影響を受けてその答えを探すのか,高校や大学くらいで将来に悩んだ時に考えてみるのか,はたまた結婚直前に改めて問い直すのか,仕事でうまくいかないときに想い馳せるのか,子どもができたときに自問するのか,人によってタイミングは違えど,頭に浮かぶことはあるのではないか。
さらっと考えて終わり,もう二度と考えない人もいれば,真剣に悩み悩む人もいるかもしれない。
ある程度,年を取ると,そんなことは考えても仕方ないことと思えるようになるのだが,飽き足らず考え続ける人もきっといる。
物語の最後に,チポリーノはいう。いろいろ学んでいたほうが,悪い人をやっつけるのに役に立つからと。
先ほどかいたことにもつながってくるが,❝悪者❞はいつだっている。生きていれば,必ず出くわす❝悪者❞
それは,人の形をしているかもしれないし,出来事かもしれない。何かの影響で良い人も悪者になってしまうことだってある。自分の中にいる❝悪者❞と対峙しなければならないこともある。
だから,学ぶんしょ?こうやって考えてみると,心に沁みる言葉となる。
いろいろなことを学ぶためにこそ,ぼくたちは生きているんでしょ?
『チポリーノの冒険』 ジャンニ ローダリ 著
平等ってなんだろう。
この地球上,だれもが友だちになれるんだよ。クマだって玉ねぎだって,みんな星の下では平等なんだ。
『チポリーノの冒険』 ジャンニ ローダリ 著
この物語の素晴らしいところは,登場人物がみんな野菜や果物たちでその特徴をキャラクターの一部として描いているところだ。
たとえば,玉ねぎのチポリーノに攻撃して傷つけると,傷つけた相手は涙する。相手を泣かせることができる。玉ねぎだから。
野菜も果物も動物も,見た目や特徴は全然ちがう。作者のローダリは,人をそうやって見て捉えていたのかもしれない。同じ人間はいない。トマトと玉ねぎって全然ちがうよね。人と人もそれくらい違うんだ。
個性豊かな人間を,ひとつの人間として括るのではなく,特徴のある個のある生き物として野菜や果物の形を借りているのではないだろうか。
身分,立場,人類はさまざまな課題をもってきた。生まれた場所が違うだけで,見た目が違うだけで,肌の色が違うだけで,差別してきた。でも,平等なんだと言いたかったのだろう。
一人ひとり,何もかもちがう。顔も内面も経験も心も,何もかもちがう人間同士,みんな友だちになれる。平等なんだ。
そう思って,子育てをしたいし,子どもの思いも尊重したいと思った。
自由ってなんだろう。
自由というのはね,だれにも支配されないってことなんだ。
『チポリーノの冒険』 ジャンニ ローダリ 著
なんかワンピースのルフィが言いそうな言葉だが,チポリーノが先に言ってる!(笑)
別の訳では,自由は主人をもたないこととなっているようだ。意味としては同じ。
自分の意思で自分の行動を決められることだと思う。
自分のやりたいことをやる。それが他人を支配しないかたちであれば自由といっていいのかもしれない。
よく学校なんかで,自分勝手と自由はちがう!なんてことを聞くが,自分勝手だと人の自由を奪いつつ自らが自由になっている状態なのだろう。
人への働きかけが強要するものではなく,その者の意思で生きられる状態をいうのだろう。
これも残念なことに,現代ですら実現できていない。特に,劣悪な職場環境に生きる者。家庭にもみられるかもしれない。
さて,ここで考えたいのは,自らの意思で生きていますか,ということ。
自分の子どもは自らの意思で行動できているのか。親の都合のみで動かそうとしていないか。
もちろん,親だからしつけという意味では,自由気ままにさせてはいけない部分もある。教えなければならないこともある。大事なのは,【親の都合のみ】でやっていないかということ。【子どものために】子どもの行動を制限したり,やりたいことだけをやらせない働きかけは必要だと思うが。
そうやって,考えることが大事なのだろう。子育てには,間違いや失敗はあるのだろうけれど,絶対的な正解はないのだから。
小さな痛み,小さな悩み
だれしも心がものすごく痛むときには,小さな痛みなど感じなくなるものです。
『チポリーノの冒険』 ジャンニ ローダリ 著
だれしもほんとうにうれしいときには,小さな悩みごとなどきにならなくなるものです。
『チポリーノの冒険』 ジャンニ ローダリ 著
物語の中には,こんな今の日常でも心を落ち着かせてくれるような言葉がある。
人は言葉によって傷つくこともあるし,救われることもある。
【心がものすごく痛むとき】も【ものすごくうれしいとき】も,そうそうあるものではないけれど,生きていれば必ずそんな日がくる。
日常の中に,小さな痛みも小さな悩みも溢れているけれど,それがあることが生きている証ともいえるなぁと思った。
勇気をもって規則を破らなければならない時がある
この項目だけの記事を5000文字くらいで書きたいくらい,児童文学(岩波少年文庫)の最後の訳者のあとがきはとても良い。
ごめんなさい。今までただ翻訳しただけの人だと思っていました。当然そうではなく,訳者の方たちが物語の魅力を最大限引き出してくれているのだ。
原著を何度も何度も熟読しておられるのは当然だと思うが,時代背景や著者の人生についての研究など,やり尽くしておられる。
この『チポリーノの冒険』(岩波少年文庫)の訳者あとがきも,本当に作品の魅力を数段押し上げてくれているのではないだろうか。
ローダリは物語づくりのマニュアルともいえる『ファンタジーの文法』という本で,このように解説しています。
私たちの物語においては,順応主義に反対する❝ずっこけた登場人物❞が成功を収めなければならないし,当然なことや規律に対する彼らの❝不服従❞こそが報われなければならない。世の中を前進させるのは,ほかでもなく,服従を拒否する人たちなのだから。
『チポリーノの冒険』 ジャンニ ローダリ著 関口英子 訳 訳者あとがき
【規則だから守る】というのは,守る理由にはならない。
理屈に合わない規則,理不尽なルールがあったならば,それを押し付けてくる人がおかしいと思わなければならない。
勇気をもって規則を破ることが必要な時もあるんだ。訳者はローダリがそんな思いを込めてかいたのではないかといっている。
著者のローダリが発表したあらゆる文献にも精通し,その魅力を伝えてくれている訳者の関口英子さんには感謝しかない。
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