育休に入るまで児童文学という言葉すら知らなかったぼくが一番好きになった児童文学作家ケストナー。
はじめに『飛ぶ教室』を読み,『ふたりのロッテ』『エーミールと探偵たち』を読んだ。それぞれに子どもに対するケストナーの思いが込められていた。
今回は,『点子ちゃんとアントン』を紹介する。児童文学としてはデビュー作『エーミールと探偵たち』以来の二作目となる。
これは裕福な子と貧しい子の物語。当の本人たちは気にしていない。お金持ちだとか,貧乏だとか関係ない。
それぞれに幸福や不幸,幸運や不遇があることに対して,悲観しているわけでもない。彼らなりに懸命に生き抜いている。
『点子ちゃんとアントン』概要
設定がなるほどさすがというところ。お金持ちの両親の間に生まれた点子ちゃん。お母さんは母親としての役割を全くはたしていない。貧しい家に生まれたアントン。病気で家事はすべてやっている。お母さん思いの男の子。
本当に真逆なのだが,2人は仲良し。無二の友人。とにかく相手想いの2人。その2人が中心となって展開する日常。子どもを通して世界を見ると,親としての在り方を考えさせられる。
この本の特徴は,各章の最後にケストナー本人の解説というべき❝立ち止まって考えたこと❞が書かれているところだろう。蛇足だという人もいるかもしれないが,ケストナーが物語を通して語りたいことが本音で書かれているような気がしておもしろい。
大人なんてこんなもの
おとななんて,こんなものよね。あたしたちは,なんでもできなくちゃいけない。計算でしょ,歌でしょ,寝る時間に寝ることでしょ,とんぼ返りでしょ。なのに,おとなはそんなこと,なんにもできないんだから。
『点子ちゃんとアントン』 エーリヒ ケストナー
確かにそうだなと思わされる。ほとんどの大人がこの道を通ったはずだ。小学校は公教育であり義務教育であるため,最低限とされる知識や技能など,みんな同じことを学ぶ。
やりたいことをやれるときもあるし,やりたくないことと出逢うこともある。そうやって自分の得意不得意が分かってくるのもひとつだろう。
ただ,子どもからしたら良い迷惑なのかもしれない。みんなと同じことをみんなと同じようにやることを求められる。大人からあれこれしなさいと言われてやらされる。
大人はしなくていいのにね。
人を想う気持ちとは
点子ちゃんは,おれいを言ってほしいなんて思ってない。自分がそうしたことが,そのまま自分へのごほうびだ。そのほかのことは,すべて,よろこびを大きくすることよりも,むしろちいさくしてしまうだろう。
『点子ちゃんとアントン』 エーリヒ ケストナー
人に何かをすると,どうしても見返りを求めてしまう。その見返りがお金やモノでなくても,少なくとも言葉を求めてしまう。「あなたのおかげで助かったよ」とか「君がいなかったら大変なことになっていた」とか,「ありがとう」とか。
人として当たり前のことではある。もちろん,見返りを求めていなくても,誰かに何かをして「ありがとう」と言ってもらえたら,素直にうれしい。
よく「本当の友達とは」とか「真の友情とは」みたいな議論があるが,このケストナーの言葉に集約されているように思う。
自分が誰かにそうしたことがそのまま自分へのご褒美だ。なんと素敵な言葉だろうか。
相手は気づいてさえいない。わざわざ「○○してあげたよ」というわけでもない。
もしかしたら,現実にもこういうことってあると思う。自分が気付かないだけで,誰かが自分のために人知れずしてくれていることが。
気付けるものなら気づきたいけれど,すべては無理だろう。気づいたときには「ありがとう」と言いたいし,自分もそういうことができる人間でありたいと思った。
子どもも悩む
おとなにはおとなの心配がある。子どもには子どもの心配がある。そして,心配ごとはおとなにもこどもにも,手におえないことがよくある。
『点子ちゃんとアントン』 エーリヒ ケストナー
人の痛みや悩み,苦しみってなかなか本当の意味では分かり得ない。
自分がそうなってみないと分からない。
子どもだからといって,悩みも大したことないと思ってはいけない。
どんな小さな悩みだと思ったとしても,その子にとってはそれがすべてだという場合がある。
大人にとってはちょっとしたことのように思えても,子どもにとってはそうでないのだ。
それをいつも心の中に留めておきたいと思った。
かっこいい大人
子どもたちは,こんなことやったらおこられると,自分たちでさえ思うようなことを,してしまうことがある。なのにおこられないと,子どもたちは,へんだなあ,と思う。そして,そんなことが何度もあると,子どもたちはだんだんと,その人への尊敬を失っていくのだ。
『点子ちゃんとアントン』 エーリヒ ケストナー
人によって,❝かっこいい人とはどんな人のことか❞は違うと思う。かっこいいとはポルコ・ロッソのことだと思う中年男性もいれば,イケメンで心に繊細さを兼ね備えたハウルのような人だという女子もいる。
ただ,大人としてのかっこよさというかあるべき姿というのは,善悪を子どもに教えられる人ではないかと思う。適切なタイミングで適切な言葉かけができる大人。
子どもも大人も,間違ったことをしたときに,しまった!やってしまった!と感じなければならないとケストナーはいう。そう思えるのは,ものさしがあるからだと。常識や良識,道徳心などのものさし。人の道というものさし。
平気で,人をだましたり,傷つけたり,ぬすんだりする若者が増えているこの世の中。彼らは,そういったものさしよりも,お金だとか上からの命令みたいものがたいせつなのだろうか。引き返せないほどの暗闇を生きているのだろうか。
というわけで最後はケストナーが伝えたかったこと。
子どもたちへ
みんなが大きくなったとき,世界がましになっているように,がんばってほしい。ぼくたちは充分にはうまくいかなかった。みんなは,ぼくたちおとなのほとんどよりもきちんとした人になってほしい。正直な人になってほしい。わけへだてのない人になってほしい。かしこい人になってほしい。
『点子ちゃんとアントン』 エーリヒ ケストナー
ケストナーは,1933年にこういうことを言っていた。第二次世界大戦になってしまったときどう思っただろうか。ドイツではナチスが台頭。ケストナー自身も書くことを規制され,弾圧の対象になっていた。それから90年経っている。
世界はましになったのだろうか。ケストナーが夢みた未来とはどれくらいギャップがあるのだろうか。
ぼくはがんばっているだろうか世界がましになるように。
きちんとした人とはどんな人だろう。
正直な人とは?わけへだてのない人とは?かしこい人とは?
そういったことを考えること,そんな人間になることがケストナーの言葉を聞くということなのだろう。
コメント