人が人生のうちに本を何冊読むのだろう。少ない人は10冊程度かもしれない。多い人は年間だけでも100冊以上読むかもしれない。それほどまでに本というものは世界に溢れている。
そんな溢れかえっている本の中で,人生で読める本は数冊程度でほんの一握りにも満たないだろう。10合ほど炊いたお米の中の1粒くらいのもだろう。
その中で読んでよかったと思える本に出逢うこともまたさらに少ない。
『ふたりのロッテ』はその数少ない本の中の1冊だ。
同じ作者ケストナーの『飛ぶ教室』という児童文学がたまらなく好きで有名で,その双璧ともいえる作品なので,わくわくしながら読んだ。期待に違わぬおもしろさだった。
子どもだってつらいんだ
子どもだって幸せでいたいんだ
そんなことを教えてくれる本。
『ふたりのロッテ』の概要
大戦下を生きた作者で第一次大戦には出兵している。大戦前の1933年に『飛ぶ教室』,戦後に『ふたりのロッテ』を発表したことが興味深い。
ナチス政権下では,自由な表現ができず執筆活動もままならなったが,それでも作品をつくりつづけた。ご存知の通り,ナチス政権は,反対する者を捉えたり死刑にしたりしていたし,ケストナーもその危機に晒されていた。
そんな中でつくった作品。未来を担う子どもたちへ向けた児童文学。戦争・迫害・差別などの環境下でこれほど愛に満ち,子どもの幸せを描く作品をつくれるなんて,一体どんなふうに世界を見ていたのだろう。
子どもは犠牲でも代償でも生贄でもない
親たちのせいで子どもたちにつらい思いをさせるなら,子どもたちとそういうことについて,きちんとわかりやすく話しあわないのは甘やかしだし,間違ったことなのだ。
『ふたりのロッテ』エーリッヒ ケストナー作
子どもに対峙するとき,子どもと話そうとするとき,
心のどこかで「どうせ言ってもわからないだろうな」と思いながら話してしまうことがある。「言っても仕方ないからごまかそうか」と思って話さないこともある。
この台詞は,親の離婚でつらい思いをしている子もいれば,親が離婚しなくてつらい思いをしている子もいるという流れで語られる言葉である。
離婚という場合でなくとも,親のせいでつらい思いをしている子がたくさんいる。それも何の説明もなしに。
子どもは自分の家のことしかわからない。いわゆる【一般家庭】というものの分からなければ,【円満な家庭】もわからない。自分の家が世界の大半を占めている。
自分の家庭や親のことを基準にして,外の世界との関わりをもつ。それくらい家庭というもの,親というものは子どもにとって絶対的で影響力を持っているものだ。
親だって人間だから,しんどいこともあるし,悩むこともある。夫婦の関係がうまくいかなくて子どもに迷惑をかけてしまうこともある。だからといって,子どもまでつらい思いをさせていいわけはない。それでも仕方ないこともあるけれど。
それならせめて,子どもにもわかるように,分かりやすく説明するべきだ。【分かりやすく】説明するのは,子どもに理解力がないからという意味ではない。【敬意をこめて】分かるように説明するべきだということ。
ケストナーは,しないことは甘やかしだし,間違いとまで言っている。
子どもをなめるな,と。
結婚でたいせつなこと
上記の流れと似ているが,大抵の子どもの不幸は,大人の身勝手さや親の都合から生まれることが多いと思う。
それなら逆にいうと,子どもの幸せをもたらすことができるのも,親であり,まわりの大人だ。
結婚でたったひとつたいせつなのは,子どもの幸せです。
『ふたりのロッテ』エーリッヒ ケストナー作
それぞれの時代の多様な結婚観では,子どもをつくらない家庭もあれば,ほしくてもできない家庭もあるので,すべてとは言えないが。
結婚を考え始めた時,結婚を決めた時,プロポーズした時に,イメージする光景に必ずまだシルエットしかないようなぼんやりと笑っている子どもがいると思う。
理想の家庭を思い浮かべるとき,必ずそこに幸せな自分と奥さんとまだ生まれてもいない子どもが何人かいると思う。
結婚=幸せ=子どもという結びつきが頭の中で出来上がっているはずだ。
それがいつしか,親の都合で子どもの幸せを最優先にできなくなる。自分も大事だし,夫や奥さんも大事だが,何よりも大事なのは子ども。
子どもを大事にすることが自分たちの幸せでもあったはずなのに,それがつながらなくなってしまうこともある。
自分の子だからといって,その犠牲にしていいわけはない。
自分も幸せ,奥さんも幸せ,子どもも幸せ。それが家庭の幸せ。
まだまだ結婚して5年ほどしか経っていないが,そういう家庭を目指したい。
人生はやり直せる
いままでは,こんなかんたんに手が届くしあわせを,ちいさなむすめにあたえてやらなかった。
でもいま,まだ間に合う。取りかえしなんて,いくらでもつく。
『ふたりのロッテ』エーリッヒ ケストナー作
宮崎駿は,自らの著作『本へのとびらー岩波少年文庫を語る』で児童文学について❝児童文学は「やり直しがきく話」なんです。❞と語っている。また,❝生きていてよかったと,子どもにエールを送るのが児童文学❞とも言っている。
まさに,この『ふたりのロッテ』は,やり直す話だし,子どもに心から「生きていてよかった」と伝える内容になっている。
引用した言葉は,母親の気持ちだが,大人もやり直せるんだと伝えてくれているようだ。それは,ほかならぬ子どもが変わったおかげなのだが。
失った幸せをまた
失ったしあわせにも,うけそこなった授業と同じように,補習があるなんて。
『ふたりのロッテ』エーリッヒ ケストナー作
とてもかわいらしい表現で,人間社会のあたたかさを教えてくれる。補習って本来は嫌なもの。面倒くさいもの。でも,ある意味では,手を差し伸べてくれているということ。
補習を受けても,ただ「めんどくさい」「早く終わらないかな」「いやだな」なんて思いで受けていると,全く意味がないどころか,ただの時間の無駄になってしまう。
自分の姿勢が大事だということも教えてくれる。
幸せを失い,自分は不幸だと思い,世を恨み,世間を憎み,マイナスな気持ちで生きている人のところには,補習は訪れない。
今おかれた状況を受け入れ,自分にできることを精一杯して生きていく。児童文学に多く感じられるメッセージでもある。
だから,ロッテやルイーゼのもとにも幸せは訪れたのだ。
題名の謎~なぜ,ふたりの【ロッテ】なのか
なぜ『ふたりのルイーゼ』ではないのか。
ロッテはルイーゼと「子どもの家」で出会い,写真を取りにいったあと,お互いの誕生日が同じであり,自分たちの両親が同じだということにも気づく。つまり,自分たちは双子だったんだと。
その直前,ロッテとルイーゼが,花冠を作ってあげたときにお互いに心を開いた。仲良しになったのが,ふたりともがロッテの髪型にし,そこで「ふたりのロッテ」が誕生したからだ。
この時,はじめてお互いの両親について語り合った。これがなければ,おそらく気づかなかっただろう。
最後の場面でも,ルイーゼはロッテに成りすましていたことを白状したが,ロッテはルイーゼのままだった。
父親側が気付かず,母親は気づくというのも,なんともリアリティがある。
まとめ~すばらしきあとがきから
ケストナーは,多くはおとなのために子どもがつらい目に合うことは子どもだから仕方のないことでもなんでもない,と言ってくれます。
子どもは怒っていいのだ,とすら。
そして,頭をしゃんともたげてつらいことに向き合う子どもたちをケストナーは心から尊敬しています。
『ふたりのロッテ』エーリッヒ ケストナー作 あとがき訳者 池田香代子
子どもがつらい目にあうことの大半は,おとなが原因というのは心に留めておきたい言葉である。
離婚や仕事による転住などの大きな問題でなくとも。
親として,自分の都合で子どもをコントロールしてしまおうとすることがよくある。
時間がないからといって,全部子どもがすべきことをやってしまう。口うるさく言ってしまう。
子どもの自主性に任せることがなかなかできないでいる。
子どもの成長を,おとなの都合でとめてはいけない。
言葉では分かっていても,どうしてもやってしまうことが多くの親にはあるのではないだろうか。
それでも,子どもは逞しいし,強い。学ぶ姿勢,成長したいという欲求を伸ばしてあげられる親でありたい。
自立するしかなかったふたりのロッテの行動が,両親をも成長させたのだから。
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