❝子ども(赤ちゃん)が望むことはすべて満たしてあげる❞
そんな言葉にハッとした。わがままを聞いてはならない。子どもの思い通りにしてはいけない。しつけをしなくては!!
そうではなかった…。
【育児や子育てに,正解はないが不正解や失敗はたくさんある。】ということを日々感じながら,生きている。
あの時のあの行動はよくなかったな。次はどうしてあげようか。など。
分からないから勉強をする。できる限り正しく在りたいから学ぼうとする。取りかえしのつかない失敗はしたくない。自分のことならまだしも,子どものためにできることはやってあげたい。
親であれば,誰しもそんなことを思うのではないだろうか。
子どもの望み,願い,要求をどれくらい満たしてあげる,叶えてあげるのがいいのか迷っていたが,もう迷わなくなった。
児童精神科医として多くの幼稚園や保育園にも関わってこられた佐々木正美さんの書籍『子どもへのまなざし』から引用させていただきながら紹介する。
子どもの要求,どれくらい叶えてる?
子どもはよく親に頼む。望む。要求する。「○○して!」「○○連れていって」「△△ちょうだい」
どんな要求なら叶えるか,どんな望みなら満たしてあげるか,明確な基準のもと決めている人のほうが少ないのではないか。
正直,その時の自分の精神状態というか心のゆとりがあるかないかも変わってくるし,その直前に子どもがすごく良い子であれば,願いを叶える窓口は自然と広くなっているはずだ。
明確な基準もないまま,親は子どもの要求に応えたり,応えなかったり,「お願い」と捉えたり,ただの「わがまま」を捉えたりする。
親はそのつど,自分の価値観に照らし合わせて,どの要求を満たしてあげるかを,取捨選択しているわけです。その際,とくに重要なことは,親自身にしかできないこと,つまり,他人ではかわってやれないことをできるだけたくさん聞いてあげることです。
乳児期であれば,おっぱいがほしいときにすぐに飲ませてくれた。幼稚園の昼食のとき,弁当のふたをあけた瞬間に自分が愛されていることを感じ取れるようなお弁当を作ってもらった。
このような心の満ち足りた依存経験を,十分に与えられた子どもは,それだけ親のいうことをよく聞きますし,また,必要なときの親ばなれや自立もスムーズにいくようです。
『子どもへのまなざし』佐々木正美 著
今まで要求を満たしてあげるかどうかの基準は,親のその時の心の状態(気分)によるところが多い部分があった(少なくともぼくは。)
自分なりに,「これを許してしまってはわがままな子に育ってしまうから厳しくNOと言えなくてはだめだ!」と思っていても,それすらも親の気分に左右されている気がするのだ。
そうではなく,【親自身にしかできないこと】を基準にすればいいとのことである。
自分でできることはやらせればいいという意味にも捉えられる。
今後,どうするか悩んだ時は,親自身にしかできないかどうかの基準で判断しようと思った。
わがまま?努力?願い?
乳児は自分の要求をなにひとつ,自分でかなえることはできないのです。
(中略)
乳児が自分でできる努力というのは,泣くことだけだということが分かります。
泣くことで親をはじめ,まわりの人に自分の希望を伝えるわけです。
『子どもへのまなざし』 佐々木正美 著
ここでは,乳児について書かれている。引用したとおり,乳児は自分では何もできないこと。何かしたくても,何かを伝えたくても【泣く】ことしかできない。
乳児にできる努力は【泣く】こと。
おむつをとりかえたくても,おなかが減っても,のどがかわいても,さみしくても,つらくても,退屈でも,とにかく何かを伝えようとするときには,泣くことしかできない。
これを読んでいて思ったのは,乳児に限らず,子どもというのは,自分でできることが限られているということだ。
特に未就学の子たちは,毎日が新しい何かとの出逢いで,多くのことを学ぶと同時に戸惑う。
どうしたらよいかわからないこともたくさんある。1人でやろうとしてもわからなかったり,勇気がでなかったりすることもある。
そうした中で,あたかも自分でできそうなことを要求したり,自分でやろうとしなかったりするのは,果たしてわがままなのだろうか。
子どもがぐずぐず言うことすべてがわがままではないのかもしれない。子どもなりの努力と捉えることもできる。すべてではないとは思うが。
子どもの願い,希望,要求,どんな言い方でも構わないが,それらしいことのすべてがわがままだと捉えて「自分でしなさい」とか「わがまま言わないの」とか言ってしまう自分もいるなと反省した。
わがままではなく,努力。そう捉えると見え方も,関わり方も対処の仕方も変わってくる。
ほんの少し手を差し伸べるだけで,「自分でやろう!」という気になったり,親への信頼が高まるかもしれない。
望んだとおりに叶えてあげる
希望が望んだとおりに,かなえられればかなえられるほど相手を信じるし,その相手の人をとおして多くの人を信じるし,それよりなにより自分自身を信じるし,自分が住んでいる環境,地球,世界を信じることができるのです。
『子どもへのまなざし』 佐々木正美 著
大人の世界でも同じようなことが言える。自分を信じてくれている人を裏切れないし,自分を慕ってくれる後輩の前ではしっかりがんばろうとするし,自分に期待してくれている上司には応えようとする。
子どもに対しても同じ。子どもの願いを叶えれば叶えるほど,親の要求にも応えてくれようとする。
自分の要求や願いを叶えてくれない人を信頼しようとは思わない。
最も重要なのは,信じること,信じてもらうことを親子関係でつくること。
子どもはこれを前提に,他人とも関わるようになる。
親子関係で培えるものは,全部培いたい。
けんかすることも,仲直りすることも,信じることも,信じてもらうこともすべて。
子どもが望んだとおりの願いを,望んだとおりに叶えてあげることで,親を信頼するようになる。親の願いもかなえようとするようになる。
そうやって関係をつくっていけばいいのだ。
過剰干渉ではなく過保護に育てよう!
エリクソンにしろ,そのほかのすぐれた学者にしろ,いろんな人からあれこれ多くのことを学んで,(中略)修正したほうがいいと思うものもありますが,たったひとつ,私はこれだけはまちがいないと思うのは,子どもを過保護にしてだめにした例というのはぜったいないのだということです。
『子どもへのまなざし』 佐々木正美 著
【過保護】という言葉の捉え方によっては,【過保護はよくない】とされるかもしれない。
ここでいう過保護とは,子どもの要求を適切に叶えてあげることと解釈したい。
❝子どもが金銭でものをねだるという場合は,ふだん親が子どもに手をかけてあげることが足りない❞と指摘している通り,【子どもの要求(望み)】にも範囲はある。
❝子どもが望んだことを,やりすぎるくらい手をかけてやっていれば,金銭でものをねだるということはあまりなくなります❞とも言っている。
おんぶやだっこを望むたびにしてあげても,歩かない子になるなんてことはなく,むしろ安心を得られ,少し成長するとしっかり歩くようになるし,精神的にも自立する。
ただ,【過剰干渉】【過干渉】はよくないとも書かれている。
ここでいう【過剰干渉】とは,子どもが望んだことを必要以上にやってあげたり,子どもが望んでもいないことをやらせすぎること。これでは,自立心も自主性もなくしてしまうというのだ。
何でもかんでもやってあげたり,先回りして失敗しないようにしたり,子どもの話をさえぎって「こういうことが言いたいの?」と言ってしまったりすることは,親が自分の感情を満足させたいだけだという。
コメント