『風の又三郎』を読んだ。難しかった。おもしろいのかおもしろくないのかも分からなかった。分からないものに出会った時,分かろうとするのか,分からないからそれで終わらせるのかはその時にも内容にもよる。
児童文学を好きになって,海外の名作と呼ばれるものをいくつか読んできた。
そこで避けては通れないのが,日本を代表する童話作家の宮沢賢治の作品だ。
『注文の多い料理店』『銀河鉄道の夜』など,読んだことはなくても題名は知っているという人は多いだろう。それほど有名でもある。
小学校の教科書にも伝記として『イーハトーヴの夢』が載っているほどだ。
児童文学が好きというからには,当然読んでいて必須の作品ともいえる宮沢賢治の作品。
ただ,昔の言葉というか表現だったり,方言だったりが本当に難しい。それで途中で挫折する人もいるのではないかとも思う。
難しいと感じたり,よくわからないと感じたり,素敵だなと感じたりしながら読んだ岩波少年文庫版の10の短編を含む『風の又三郎』。
自分なりの感想を書いていく。
『風の又三郎』概要
まずびっくりしたのが,1934年というと90年も前であるということ。
もっとびっくりしたのが,宮沢賢治が1933年に亡くなっているということは37歳で亡くなったということ。
今のぼくの年齢とほとんど変わらない。だからどうしたということでもあるが,その若さで亡くなったこと。
そんなこと言っても何の意味もないのは承知の上で,もしもっと長生きしていたら…。後にどんな作品を世に送り出していたのか,どんな生き方をしていたのか,考えずにはいられない。
37歳の若さで亡くなり,こんなにも多くの童話を発表したところが本当にすごいとしか言いようがない。それ以外の言葉が見つからない。
44歳で亡くなったサンテグジュペリもそう。作品に関係はないけれど,その人が何歳でどの作品を発表したかということは,年を重ねるにつれて考えるようになった。
最近,その年齢にならないと分からないこともあるし,若いからこそ言えることもあるのだと思うようになった。子どもだからこそ,素晴らしい発想や考え,表現ができるのと同様に。
風の又三郎
分からないなりに『風の又三郎』について書いていきたい。
三郎という少年
高田三郎という少年は,普通の人間なのか,風の神なのか。
ぼくたち人間と,同質なのか異質なのか。
同じものか,違うものか。
そうやって人は,人を判断し,安心したり,不安になったりする。
無意識的に,この人はこう,あの人はああいう人,と勝手に決めつけたりする。
自分の側か,その他の側か。
この『風の又三郎』でもそういったテーマがあったのではないかと思う。
転校してきた三郎という少年は,知らない土地からきた。方言を話さない。服装もちがう。人とはちがう。
そういった異質に対して,あらかじめそこに在る集団はどう接し,どう受け入れるのか(または排除するのか)
風とは
風とは何か。宮沢賢治にとっての❝風❞とは。
こういった内容のことはおそらく数多の研究者が考察,研究をしつくしてきたことだろう。
宮沢賢治にとっての❝○○❞とは何か。みたいなことは。
ぼくはそういったことはよく分からないので自分なりに考えてみたい。
❝風❞とは,多くの顔をもったものだ。そよ風もあれば,つむじ風もある。台風や暴風もある。人を和ませるときもあれば,傷つけることもある。
同じそよ風でも,夏の暑い日に暑さを和らげてくれたりもするけど,冬だとより寒く感じさせる。人間みたいだ。
自由奔放なものとしても描かれている。勝手に吹く。吹かせようとすることもできるけれど。そして,目に見えないもの。心みたいだ。
無風なところでも,自分が動けば風を感じることもできる。吹き荒れる場所でも塀の後ろにでも隠れると防ぐこともできる。風はただ吹くだけなのかもしれない。
ジブリの風
宮崎駿は『風立ちぬ』で,❝風は吹いているか,では生きねばならん❞と描いた。
風が吹いた、生きなければならない。
風が吹く限り,ぼくたちは生きなければならない。
ジブリという言葉自体,❝熱風❞を意味するようだ。
多くの表現者は,風を逆境のようなものとして描くことがある。
風は,困難を表し,それに立ち向かう。❝逆風❞をもろとしもしない生き方という表現でも使われる。
それに対して,❝追い風❞という言葉は,人を応援するときに使う言葉でもある。
風に乗るのか,風を割くのか,❝風の便り❞という言葉もあるくらいだ。
❝風❞はさまざまなものを救い,奪うものだ。風が吹くとはそういうことだ。
宮沢賢治にとっての❝風❞は何だったのだろう。三郎という少年に重ねて考えるとおもしろいかもしれない。
その他の短編童話
短いものは5ページとか10ページくらいなので読み易い。
セロ弾きのゴーシュ
たくさんの動物たちは,内面に潜む自分と思えばいいのだろうか。
自分の中に自分ってたくさんいる。勉強に置き換えてみても分かりやすいが,勉強だるいと思う自分。勉強なんてしても意味がないと思う自分。でもしなくてはいけないと思う自分。好きな事ばかりやっていた自分。そういうわけにはいかないなと思う自分。他人から見て今の自分って本当にダメに見えるだろうなと思う自分。そうはいっても自分は自分だろうと思う自分。
そういったものが動物として現れ,自分自身と対話をしていくお話?だと思った。自分ひとりで自分と向き合うのは本当につらくて孤独なこと。それができる人はなかなかいない。
でもこのお話のように,動物として毎晩現れてくれたら,乗り越えられるのではないだろうか。
君にも見えるよね,動物たちが。君にも訪れるよね,言葉を話す動物たちが。仲良くやんなと教えてくれている気がする。
自分で歌を歌うカッコウだけには謝った。居場所をよそに求めている点も共通するカッコウだけに謝った。お前もよくやってるよ,と自分自身に言ったということだろう。
ふたごの星
人はいくつになったら純粋さを失うのだろう。どうやって純粋さを失うのだろう。
純粋であるがゆえに,騙されてしまう。人をだます人ほどだまされない皮肉。
人にだまされないためには,人をだます人にならなければならないのか。
自分が平穏に暮らすには,人を助けないほうがいいのか。人と関わらないほうがいいのか。
そういったことがテーマのこの作品。結果的に救われるのがとてもいい。
何かのために,誰かのために一生懸命やれば,必ず見てくれている人がいる。報われるのだと教えてくれる。
自分をだました人にさえ許しをこえるなんて超越している。今の時代に最も足りないものかもしれない。
芸能人の不祥事を袋叩きにする人にはきっと分からないだろう。
そう決めつけるぼくの心も純粋さを失っているともいえる。
自分の心の現在地
宮沢賢治の作品を読むと,心の現在地が分かるような気がした。
心の純度ともいうべきか。
これはぼく個人の思ったことなので多くは言わない。言わんとしていることは伝わる人には伝わるだろうという何とも不親切な終わり方をしようと思う。
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